覚者慈音205 第十二巻  大霊界 果して相対絶対の区別ありや  教主寛大講義  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO157
 果して相対絶対の区別ありや        その6                                                    教主寛大 講述


 幼児は自然を知らず。故に高き処より転落して傷く。幼児は空虚の何れを理解する力あらざるによってなり。故に是を導く親なかるべからず。小児とならば些か そのわきまへを抱くによって危き所を避くる智慧はそなはる。その智慧を与へしは親なるべし。この理を考ふれば汝等諸子は幼児の其にして、是を導く任務は親として我等が架せられ居る任務なれば、尊卑の考へなどあるべき要なし。幼児は親を尊ぶとか卑しむとか云ふ如き考へを持ち居るものにあらず。汝等諸子は我等より見る時は幼児に等し。未だ小児の位置には達し居らざるなり。せめては早く小児となれよ。這へば立て、立てば歩めの親心と云ふ諺もあるならん。我等はその思ひに充たされ居るなり。言葉に対して彼是択び語る必要あらんや。慈音をはじめこだま会の人達に円海泰岳ををくりしは、即ち親としての任務をなさしめんが為に下したる迄なり。泰岳円海は保母或は保父とみなすも可ならん。彼等は慈音をはじめこだま会の人達を幼児の其の如く考へて導き居るなれば、汝等諸子は第三者として是を見る時、幼稚園の先生が幼児を育て居る有様を見て微笑むと同様の関係あらん。小児に対して、「良き子よ、賢き子よ」と語るならば小児は威儀を正して威ばるならん。汝等諸子の生活は是に匹敵す。褒められて威張りたし誹られて卑めらるる事を厭ふならん。善事をなさば威張る心となり、悪事をなさば逃げかくるる姿に変ず。是自然の法則に順ずると順ぜざるとによる。正しき行為をなさばなしても威張らず。然して不正の行為を厭ふ人にあらざれば法則を守りたる人とは云ひ難し。富貴の人は己が身の行ひ正しからずとも、財宝によって権威を振う如きは我等の眼より見る時卑しと見るの他なし。されど尊卑の区別をなすものにあらねば別段歯牙にはかけざるなり。虚と空のことに対して聊か諸子に知らしめたりと思ふが理解せしか。未だ理解する能はざるや。先づ胸に手をあてて考へ見よ。汝の日々の行為は正しきや。正しければ我等の説を受け入れたる人なり。正しからずば我等より眼を離したる人なり。兎に角理解したらばその道を歩まんことを望む。我、多くは語らじ。

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