感応論 第二の巻   テツシン貴尊講義   鏡心の巻その一

感応論第二巻  鏡心の巻    テツシン貴尊講義
2020.11.30


 前巻に述べし「白銀も黄金も玉も生きてこそ、今死ぬる身に何のものかは」に対して、「世の中に宝を残しおかずとも、せめては残せ死する思いを」と云へるあり。人の為世の為、延いては子の為孫のためにと思ふは人の真心なり。己さへよくば他を顧みざる現在の思想は如何なる処より来りしや。即ち動物性よりと云ふならん。汝等動物性にてよしと考へて向上の希望を捨つることを得るや。動物性に甘んじて一生を終るをよしとなすや。汝等是にて事足るや。若し然りとせば汝等は案外無慾なりと我は感心すべし。
「大黒に宝貰ふて底をぬき」とか云へる句を聞きて、人は慾心強きものかな思ひしは誤なりしか。然にはあらざる事を我は知れり。元来人間は慾心慾望絶えざるを以て身心を陥いるるなり。汝等は白痴者に対して大なる菓子と、小さくして美味なる菓子を与へ見よ。彼は不味なりとも大なるを取るべし。是を見て汝等は嗤ふならん。然れども汝等の慾望将に是と何等異なることなきにはあらずや。我、思ふに人間は身勝手なるため理を非に曲げんとする性質を改めんことを望むなり。己に利と考ふる時、非も理となさんと努力する無駄あり。
 例へば彼の宝に於ても、「今死ぬる身には何のものかは」とは余りに利己より出でたる句なりとて教訓とせざる人もあらん。人の為すべてを提供せんとて働く真心の人は、指折り算ふる程なるべし。多くは己使ひ果して余財を提供するさへ稀なり。甚だしきは他人のものをもかすめんと企つるさへあるにあらずや。是も子孫の為、彼も子孫の為と云ひて蓄ゆれど、実は己の心の慾求を満さん為の口実にすぎざるもの多し。汝等宝貰ひて袋の底をぬくも知らぬならん。財宝と生命とを取り換へるに至って憫ならざる得ざるなり。金銀を蓄へなば世の中の人より敬れ、己自身は享楽を恣になし得るは一石二鳥の方法として、専心是に意を用いて耳をかすを欲せざる人の多きは嗤ふに堪えたり。神は彼らを苦々しく思ひ給ふならん。
恰も幼児が親の眼をはなれて、戸外に悪戯遊びをなし居ると何等異なる処なければなり。汝等親の訓戒を守らず、我慾の振舞をなすに依て傷き或は名誉をおとすに至るなり。何に限らず親の命に従はずば、戸外に遊ぶ幼児の如くならば、何日かは人道は開かれざるのみか、動物性より度脱する事あたはざるべし。
 我は人間と称する動物なれば滅後は、滅後なり。人間らしき生活もせず計り難き未来など思ひ煩いて享楽もせず、死しては真に不本意なるにはあらずやとて、修養はおろか人の修養に迄妨げをなす輩もあり。斯る有様にては何日の世にか人間の進化向上は望まれざるべし。悪魔宗教には耳を傾くるなかれ。汝等が修行完成したる後にて始めて入門するも可なり。修行中に彼是と立ち入らば迷ひのみ多くして、得る処なきを以てなり。修養の秘訣としては人苦に耐ゆる事なりとは屡々語れる処なれど、総じて不法の理屈をならべて身勝手の行為をなすものは死に直面して慌てふためくものなり。後の悔を残さぬ事肝要なり。

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