感応論 第一の巻   テツシン貴尊講義   看破と測定

感応論 第一の巻  最終章 
 2020.11.29


「白金も黄金も玉もいきてこそ、今死ぬる身に何のものかは」とか云へるあり。此歌の如く考へて練磨すべし。汝等は生きんともがきて苦むなり。即ち猫共の考へ方をなして手柄功名
を焦りて猫の本分を忘れし如く、人間としての本分を忘れて鼠を補るあたはざるなり。虚心坦懐ならんとして得られず。却て騒擾混濁に終るなり。されば鼠を入れざる猫になれずともせめては鼠を易々補りし猫位の程度迄進みたきものなり。なせば必ずなるものとの信念を強くして行ふべし。怠り懶(なま)ける事なかれと注意す。
 我、今汝等に未来論を語るを余り喜ばざるなり。何となれば汝等は却て迷ひを深めて真の信を求むる事を得ざればなり。汝等は考古学者の説を信ずるや。果して考古学者の理論は悉く敵中し居るかは疑問なるべし。過去の経歴於てすら尚斯くの如し。まして未来に於ておや。
 汝等は我の説を信じ、我の教へを守るならば必ずやその結果を修めしめずんば、我は神の咎をうけて永久の苦を受けん怖れあればなり。我、汝等に説くは責を一身に担ひてなり。汝等は石炭を木なりと思ひ居るに、今又是を燃性岩礁にして木にあらずと説く学者出でたりと仮定せば汝等は迷ふことはあらざるや。智慧より推理すると事実より知るとは、その信に於ての速度は斯くも相違あるものなり。
 されば汝等我の説く論旨は我が行ひ来りし事実を赤裸々に示めすなれば、たとえ汝等が未来と思へる事柄も、我は今なる事を説くなりと思ひ信じて感受せよ。我は一切の責を負ふべければなり。
 看破測定については過誤なく適確ならざれば真の看破にはあらず。汝等念力集に於て、円海より滴水の法を聞きて、心の清(すま)せかたを悟りしならん。又四線の法則に依て煩悩即菩提なる事も知りたるならん。平心とは唯心をすませるにすぎず。若し騒擾せられなば忽ち混濁す。故に混濁を防ぐために汚物を捨てざるべからず。汚物を捨てれば如何に騒擾すとも混濁をまぬがれて明鏡の如くなりて、ここに始めて鏡心法は完成すと、論は然り。されども云ふ事は易けれども行ひ難きは事実なり。さりとて行はずして手を束ぬる時は尚更ならざるべし。なるとならざるはなしての後なり。ならざるとも知らぬ昔と思へばすむ。ままよ、やってやって見ようと云ふ気持ちになりて行ひ見よ。ままよと云ふ心になれば、其が捨る心の糸型なり。ままよ如何にともなれと、此処より醒め、行かんと励まし、己に問ひ己に答へて励まば必ずや希望は達せらるるなり。論議を後にして実行を先にせよ。十里の道は九里を半ばと思ひて歩むべし。

 平心を保つ要点としては物に動ずることなく、苛立つ事なく悲み怒る事なきを大切とす。人若し汝を立腹さするとも静かに親をよぶべし。親を呼ぶ余裕を作れば、其より分別のつくものなれば、怒る心は沈静して平心に返る事を得るなり。何につけても親を片時も忘るる事なくすべてを親の手にまかせ服すべし。是ぞ即ち平心の極意なりと思ひて実行すべし。親に対しては拝む心にて接せよ。伏し拝むべし。手を合はすべし。低頭せよ。不遜の態度なすなかれ。肉親の親とは異なりて目に見えざればなり。親を朋友の如くなす莫れ。敬慕すべし。朋友の如くなさば不遜となりて正しき気光素は働かじ。正しく気光素働かずば怠惰とも化す憂ひあるによって、平心法は居眠り法となる。故に慎まざるべからず。
今汝等に伝へしは、宇宙と自然の関係、更に平心の大事なれども、看破と測定の道理は未だ全からず。看破測定を正しく理解せざれば感応の本質明白ならねば、平心の講は是にて閉じ、更に鏡心の巻にて説かん。

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