感応論 第一の巻   テツシン貴尊講義   看破と測定

感応論   看破測定の法の続き
2020.11.29


 例へば未知の人ありて其人の精神を看破測定せんと計る時、もし汝等に於て善心を以てあたらば、其人は善と見え悪心を以て向はば悪人と見ゆれば、真の看破測定を計ることを得ず。故に人に接するには善悪の心をさりて、虚心坦懐以て是に処するを要するなり。是については前にも語りたる如く気光素は善悪の区別なく働く特性ありていずれにも通ずればなり。されば世の中の人には善ならんせば善となり、悪ならんとせば悪となるを以て、真実の善人真の悪人はあらざるなり。是即ち気光素を指すなり。常に霊は働かずして心のままに、智慧の気光素のみ働き居るを以てなり。されど本然のの姿に返れば親なる霊に帰するを以て、真の人なるなり。されば自他の霊は一なるものと思ひ、看破するを得られることも明らかに知るならん。小才の働く人は他よりの言葉を直に理解して信ずるなり。されど斯る人の信は浮雲の如くにして深き信を得ること難し。即ち熱し易く褪めすければなり。斯る人は彼の説にも共鳴し是の説にも又共鳴するを以て迷冬衛なり。修養せざるべからず。されば話を聞きてよく考へ己が心に合点ゆく迄教へを受くる事にあらざれば、真の信仰は得られざるべし。他人との談話中にも他の機嫌を損じまじとお世辞をふりまく人は避くべし。斯る人は信うすければなり。斯る人は言行一致せざればなり。可笑しくもなきに声を放ちて高笑ひする者とみだりに交はりを深くなすなかれ。斯る人は人交はりの中を割かん事を計る者なり。この種の性質は軽薄なり。表面は親切に見えて心底より親切ならずと知り、又過失を犯して是に対して申訳をなす人は再び三度過失を犯す者なる事を知るべし。然して過失を過失と知りて謝罪を平気にてなし、責を負ひながら尚過失を重ねるは始末に困るならん。是等は無知の人苦労の足らぬに基因す。己の利益にもならざるに甲の悪口を乙に語り、乙の悪意を甲に語り、争はしめて喜ぶ人あり。斯る人の言葉は甚だ巧みにして、看破測定に妙を得たるものなり。然れども彼等は無教育なるか、悪人に多く看破測定も習慣より工夫したるにて、理論にてなし得る事を得ざるなり。我は斯る悪行為をなさしめんとて道を説くにあらざるは勿論なり。又人心鑑別法を教へんとするにもあらず。唯是等をその参考資料となせしに止まる。
 智者は惑はずと雖も、愚者に欺かるる事多し。是を何故なるかを鑑別すべし。汝等が智者と考ふるは真の智と云ふにはあらざるならん。真の智者は決して欺かれ、且つ惑はさるる事のあるものならず。何となれば真の智者は看破測定は正しく行ひ得らるればなり。愚者に惑はさるる底の智者とは聊か智識の勝れたる賢者にして、智者と云ふ資格を有せざるなり。
 汝等猫の話を知るならん。即ち猫共集りて一疋の鼠をとるあたはず老いたる猫、飄然と来りて難なく是を捕りたれば、猫共是を見て彼にその法を問へば彼答へて、
「汝等は己の本分を忘れ居る故なり。鼠を補るは我等の本分にして、補るは当然なれば不思議にも功名にもあらざるなり。然るに汝等は功名を争ひて余りに我意を強くして威圧の度を加へたれば、却て鼠の為に看破せられたるなり」と。猫共聞きて、
「我等の首魁なるべし」と、云ひしに彼は首を振りて、
「然らず、我より勝れしは倫家の屋根に眠り居れり」と。猫共いぶかりて、
「彼は未だ一疋の鼠だに補りし事なきに何故に勝れしと云ふや」。彼曰く、
燐家に一疋の鼠も居るあたはず。故に彼は補るべき必要もあらざるなり。さればこそ我よりも彼は勝れたり」と、云ふ話を思ひ出せしまま語りき。
汝等が智者と思ふは鼠を補りしを云ふにて、我の云ふ智者は鼠を入れざるを指すなり。智者と賢者は名人と上手程の相違ある事も知るならん。又是に依て平心と鏡心との相違も朧気ながら解する道も開らかるる事と我は信ずるなり。我、汝等に平心と鏡心の間に隙を作る勿れと云ひしも此理に基きて観察せよ。俗言に「名人は上手の坂を一登り」と、云へるあるにはあらずや。是ぞ所謂道理なり。此坂をのぼらざれば鏡心は得られざるなり。汝等はこの坂を上り得る自信を養ふべきなり。然らずば銘鏡は得られじ。鏡と刀は研ぎし上にも研がざるべからず。くもりくもらせば要をなさざるなり。

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