感応論 第一の巻   テツシン貴尊講義   感応の大要 五手の法について

2020.11.26

感応論 第一の巻   テツシン貴尊講義   感応の大要
五手の法について


 円海は籠にて水を汲むを躊躇して、師に鞭打たれしと云ふにあらずや。ここに平心の大切なるあり。何となれば物事を速に行はば心は平となる。後に後にと思ひてなさざれば、なし遂ぐる迄は気にかかりて平心は保ち得ることを得ざればなり。二心は平心にあらず。汝等の常の心を見るに二心三心を働かせて居るを我は知る。斯る有様にては感応あるとも受理するを得ざるは当然なり。汝等悪心をもたざれば感応はあると考ふるは誤なり。善悪の心は感応とは関係なし。何となれば感応は善悪邪正を択ぶことなければなり。此比喩をなすには神社の祭礼に処して多くの群衆の姿が神鏡に映じたる如く、中には善悪邪正交々なるべし。感応とは斯くの如くにして、如何なる場合にも映写し来ると知るべし。汝等の眼は物の全部を見るあたはず、故に肉眼に映る感応は表面なるによりて、この現はれも従って深かからざるなり。されど心の眼は全体を見通す力を有す。故にこの働きも極めて深し。されば心の眼ならざるべからず。即ち平なる心に悪心ありとは考へられじ。されど大悪人は悪のために平心を行い居るは事実あり得るなり。是は結果に於て悪を計り居るを以て、道に反するが故に行く処に相違あれど、感応はなし得らるるなり。汝等が国は今戦ひつつありて、神に必勝の祈願をなしつつあり。必ず感応ましますを。
 汝等が敵国人の信者も亦必勝の祈願をなしつつあり。神に感応ましまさば感応は必然ならん。さりながらこの審判をなし給ふは別なることを悟らざるべからず。神はよしと見給へる方に勝利をあたへ給ふは、火を賭るよりも明白なれども、先づ我は感応論より話を進めんとす。汝等が敵とする国より見れば、汝等は敵となるなり。敵味方共に神の子となるにあらざるや。汝等我児が兄弟争ひて汝の審判を求むるならば、汝は相方の言葉を聞きて感応すれども、何れを是とし何れを非とすべき。相方に理あらば汝は如何にさばくべきか。相方共に我児なり。何れに勝利を与ふとも同一にあらざるか。神の心も必ず斯くあらんと我は信ず。故に戦時に於て相方の理非曲直を正し、何れかに勝利を得させ給ふは当然なるべし。
 そは兎も角として感応と云ふは、その範囲も極めて広けれども、その源は同様にして、光(こう)と気体より生ずるは真なり。影を映すは光(こう)にして、心の閃めきは気より受くる現象なり。人に呼ばれてオーと答えるも感応なり。もとより呼ばれたるは声なるが故なりとも、声は意識を生じ、意識は言葉を現はす。言葉は声となりて通じたるなり。是が耳を通じて感じたるにて、不思議あらずとなして汝等は深く考慮せざれども仔細に考ふれば、不可思議の潜在しあるを知るならん。汝の知己が汝を呼びたらんには敢て意とせず、不思議にはあらざるも、未知の人が背後よりオーイと声をかくる時、汝等は無意識にて足を止むるは如何なる理由なるかを考へ見よ。ここにはいささか回答を躊躇するならん。其はもしや我を呼びしならんかと思へばなりと云ふなるべし。もとより然るなり。されど其より呼べる人の心の働きを、汝にもしやと思ふに至らしむる力の現はれし感応なりと云ふに思ひ及ばば、感応作用の如何に不可思議なるに心づきしならん。

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