感応論 第一の巻   テツシン貴尊講義   感応の大要 五手の法について

2020.11.26



感応論 第一の巻   テツシン貴尊講義   感応の大要
五手の法について



 汝等ミキョウより受けたる平心法及び鏡心法に於ける五手の法を修得するあたはずば、此法を用いずとも他に法を求むるも可なり。要は心をおちつけて物に動ぜざる底の法を工夫せば、平心の法は成就せられたるなり。常に沈着にしてさわがぬ心構への修養を完備せば足る。さりながら唯外部のみ沈着を装い、内心色を失する如き態度にては、平心の理に合はざることを知るべし。唯平心のみにては感応は得られざるも、先づ心を平にせざれば物の影は映り来ることなし。
 先づ波を沈めざるべからず。さりながら波静まるも其のみにては、映りし影は明瞭ならず。故に鏡心法に依らざるべからず。混濁を清浄にして清水たらしめずんば要をなさざるべし。斯くして止水となり、清水となりて初めて種々様々の影が明瞭に映りて導交するなり。円海が籠にて水を汲みたる教へも是なり。仏教者が三宝に帰依するも是なり、神官が垢離するも、キリスト教の洗礼もみな是なり。
 汝等は三世論に囚はるるが故に誤を生じ、又修行も鈍くして真剣味を欠くなり。例へばこの事をなさんとして、今日は面倒なれば明日になさんと云ふ如きは是なり。誰かの句に「明日ありと思ふ心は山桜、夜半の嵐の吹かぬものかは」、真に然り。感応論の極意はここに明瞭に示めされたるにはあらざるか。
 汝等よく聴くべし。若し便通を感じたる時、今面倒なれば後にせんとなし得るや。斯る積極的肉体の感応は後にと放棄するあたはざるべし。過去現在未来はあるべからずと考ふべし。何事もすべて現在を措いて過去未来あるべからず。一分後も知れざるは生なり。汝等は肉体の感応は直ちになし、心の感応は明日にまわすは何故ぞ。深く考慮して反省すべきにあらざれば成就は明日に明日にと際限なからん。

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