感応論  第一巻  平心の巻  宇宙と自然  テツシン貴尊講義

光(こう)と気体との関係 其二


 熱と冷によりて一切は組織せられ、又破壊さるるとならば、肉体の組織破壊の理も亦自ずと知ることを得たるならん。然らば是等すべては自然にあらずして順序なりと云へる事も亦覚るに至りたるならん。汝等はよく自然を克服したりとか、征服したりとかの言を弄すれども、そは順序を知り得たるにすぎざる事をも亦合点さるるに至りたるならん。人間の僅かばかりの智慧才覚にて斯る言語を弄するは、自尊心の強き現はれと我は寒心に堪えず慎むべきことにこそ。
 先づ光(こう)について考え見れば、魂魄の二体より造り出されたるものなりと云ふ事実は、是に依りても知らるるならん。されば人間の病苦は魂魄によりて生じ、又魂魄によりて治癒を見ると云ふ結果も知ることを得るなるべし。故に魂魄の百二十光、気の変化によりて病苦は来り或去る。即ち人間生涯の始め中終り、身辺の変化するも百二十光、気の変化に基因する事も、必然の理と云はざるべからず。
 修行に長けたる行者に於いても山嶽に於て、気根(きこん)の行と云へるには一物の食をも摂取せざるに、何等肉体に変動もなく元気旺盛なるも、光(こう)と大気の働きに依る恩恵なり。又高山在りて朝には甘露ありて、其甘露と云ふも光(こう)と気体の関係にて生ずる甘水にて、汝等が世界にて称ふる四時より六時迄の間に笹の葉に置かるる露なり。是は雨天には無くして晴天の日なる事を見ても、光(こう)と大気の如何に尊きかを知らん。又病人に対して日光に浴せしむるも、理なる事明らかなり。
 物と物との合して更に一種の形となり、作用となり力となるも、光、気の作用ありて生ずるは、ミキョウの命名したる光源体性気源体性にして、百二十光、百二十気、即ち気光素なることを感知せしならん。
 我は念力集に於て、人間のすべてを宇宙と同様なりと考へて工夫せよと云いしも聊か会得、道は漠然として見出せし如き感も生じ来りたるならんと思ふなり。又ミキョウに於ても宇宙とは余りに広ければ、地球と考へよと説きたることも頷ずかるるならん。道は遠からずして、却て近きに真理あるを見出すものなり。

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