感応論  第一巻  平心の巻  宇宙と自然  テツシン貴尊講義

2020.11.23


 我、斯く説き来らば汝等は科学論にても語るかと思ふならんも然にはあらず。汝等に科学せよと勧むるにもあらず。我の望む処は汝等をして真の人間の有様より、進んでは人界を越えたる次の座に座らしめんと思いてなり。故に先づ自然の道理を明らかならしめて、自然の姿に導き返さざるべからず。
 是には自然なるすべての事柄を充分に体得して、是に順じて修養せば人の道を歩みて、次の座に到ることを得るなり。汝等は、人間は最高動物なるが故に、最高の享楽をなしてこそ、人間として真に生き甲斐あるなり。弱肉強食を恣にするを最高の誇と考ふる価値何処にありや。我の眼より見れば蟻蜂より推すもはるかに劣り居るにてはあらざるか。蟻蜂は立派なる科学者にてはあらざるか。斯るものより推して最高動物と誇り得る価値は何処にやある。笑ふに堪えざるなり。
 汝等最高動物と誇り得るならば、獅子虎豹よりも強き力ありや。象に比べて勝る肉体を持ち居るか。若し獅子虎に武器を与ふれば汝等は滅ぼさるべし。人間を動物と心得居るは自然を知らざるを以てなり。真の自然を感知せば、斯る言葉を口にすべきにはあらざればなり。
 されば自然とは何ぞやと問はれなば、我は神の造られたるすべての基礎となるべきを自然と答ふるのみ。斯く云はば汝等は云はん。自然とは個性なるかと。然らず。個性は作用にして自然にはあらず。作用の特徴を有す根原こそ、即ち自然にして神の授け給ひたるものなればなり。
 例へば籾は米を飽和しある以て、籾を自然なりや云うに然らず。籾を作り出せる根原を自然とは命名するなり。斯く説き来るとき、自然とは神を措きて他に自然ある事なしと語るも敢て過言にはあらざるなり。故に神は始めなければ終りもあることなし。されば全宇宙は神の創造り給ひ居るものなればこそ、是又始終ある事なきは当然にして、疑ひをさしはさむ余地を許されざるなり。然れども汝等が住む太陽系統の宇宙は、始めありし故に又終りあるも是非なきことなり。何となれば太陽には限りありて何日かは滅する時到らん。太陽滅すれば汝等が宇宙は存在せざるなり。
 始めあり、又終りある汝等が称ふる宇宙を観察すれば、自然は神を除けば空間を自然とし、この顕現なる太陽を特性となすも可ならん。我の説かんとする自然を、汝等は斯く会得なしおくべし。然らざれば我説明する理論と事実は会得することを得ざればなり。
 地の底より現はれたる山も、千尋の海の堀下げられたるも自然にはあらず。汝等は自ら作りあたはざるを自然と云ふは誤なるべし。たとえ一夜のうちに山は現はれ、海は造らるるとも、其理を知らば力にして、自然にはあらざるなり。黄色人種を白色人種に変ぜしめ、白色人種を黒色人種に変ぜしむることを得るとも、決して不思議にもあらず。物の道理を知りて行はば必ずなるなり。如何になすとも成らざるは自然なりと考へて、我説くところを聞くべし。ここに注意しおくは自然を個々に離して考ふることなり。
例えば人間のみについて考ふる時、又人間を説明するにあたりて自然と称することあれども、そは真の自然と云ふにあらざれば、今後言葉の自然と混同せざるよう考ふべし。



         無辺と有変



 無辺とは何処如何なる処も指し示めす事あたはざる涯なきを云ふ。故に無辺は無限にして始めなく又終りなし。されば全宇宙とは無辺無限にして、汝等の宇宙は此無辺の内に存在せられたるなり。故に有辺有限なりと考ふるも差支なからん。是を人生に比較して考え見よ。肉体は有限なれども、魂魄は無限より現はれしものなれば、肉体は滅するも魂魄は滅せざることを知るに至らん。
 有限を離るれば無限となり、有辺を離るれば無辺となる。即ち春蒔きし籾は、秋の籾となれども、春の籾と秋の籾は、その趣き異なりて同じ籾にはあらざるなり。されど是を仔細に深く観察するとき、春の籾と秋の籾を根原に返せば同じ籾なりと云ふ、結論に達する事を得べし。汝等にはいささか理解し難からん。然しながら我、徐々に説明して汝等に理解し得る迄語ることを約すべし。

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