感応論  第一巻  テツシン貴尊講述  平心の巻  宇宙と自然

 

伊東慈音師肖像
 2020.11.22
 


 我、先に行法に於て汝等が為に聊か講話を試みて、修行の一歩を進めしに、又もミキョウの求めに応じて、此講にあたらん事を諾せり。我、念力集に言葉を添えたれども、そは唯一言にすぎざりし。然るに汝等の心に充分に満足を得せしむるには、斯る軽句にては心の修養全からざる知りて、此処に再び講話をなして道の一大事を説かんと欲す。汝等深く意に止め聴くべし。一句々々聞きのがす勿れ。
 汝等が心に描ける自然と、我の説かんとする自然とは大差あり。汝等は大地に生ずる雑草は自然に発育すと思ふか。汝等は此世に生を享けて滅するを自然と考ふるや。
 汝等は朝に太陽を見、夕に月を見るを自然と思ふや。汝等は鬱蒼たる森林を見て自然の姿と見るや。高く聳えて雪を頂く山、縹渺として涯なき大海原等を見て自然と云ふか。我は然りとは答へざるなり。汝等が思ひ考ふる自然とは、自然にあらざればなり。
 汝等は理に似て理にあらざれば不思議と云ひ、理によって得たる事柄を追求されて言葉に窮しなば、是を自然に帰せしむるならん。然らば即ち意味通ぜざるを自然に帰せしむるにして、正しき自然とは云ひ難からん。そは不智識不理解不分明と云ふべきなり。我の語らんとする自然は、斯る事を指すにあらず。即ち宇宙の組織こそ自然とは云ひ得らるれど、他はすべてこの組織を永久不変ならしめんが為の用具なれば、此理を究むることを得べければ自然にはあらざるなり。
汝等は一枚々々重ぬれば自然に高くなると云ふならん。この重ねて高くなり行くを自然と云ふは誤なる事に心づかざるや。この高くなるは如何なる理に基くかを言葉にて云い現はし難きを以て、一言にて自然と称し又聞く者も其に依て会得す。然らば自然と云ふは一種の無言詞に過ぎざるならん。我の語る自然と云ふは有言詞にして、無言詞にはあらざる自然を説かんするなり。

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