未知日記講話集   こだま会日誌  百一回  五月三十一日   円海大師講義

日々安らかな生活をさせて頂いて、それが当たり前だと思って居る様では修養して居るとは言へない。
今こうして話をして居てもどんな災難が来るかわからない。
それが皆わかったらとてもこの世に生きて居られない。
この不安の世の中に今日も一日無事に暮らさせて戴いて有り難い・・・・・・。
何時間先にどんな事があるとわかっ居たら、逃げられる時はよいが逃げられない時は唯慌てて騒いで居るより他ない。
知らぬが仏。知らぬから安楽に暮せる。
わかったらこの世の中にじっとして居られない。
不時の災難
人間に不時の災難があるから修養修行の必要がある。
人間はどんな事があっても之は自然から授かった運命だから開拓出来なければそれに従う
外ない。
だからどんな事があっても動じない心掛けが必要。
悪事災難を払い給へと祈って、神は助けるか。
その日その日を空しく暮らし、あぶない暮らしをして、あれやこれやと余計な事に心をとられて大事な事を空しくお留守にして居る。
どんな事にも動じない様になって居たら大丈夫。
一寸した事に驚き、一寸した事によろこんでいる様ではあぶない。
何かたしかに抱いてくれるものを見つける。
神が抱いてくれると言ふ・・・・・神はどこにありや。人に聞かされてそう思って居る丈では有るか無いかわからぬ。之はたよりない。
然し何かなければならぬ。それは何か。
それは皆の心掛け一つと言ふより他はない。
自分の心から本当のあきらめを誘い出してこなければならぬ。
どんなことがあっても動じないあきらめがついて居るか。この明らめがあれば、死なした親、子、兄弟、皆共になるはず。
この明らめがついた人こそ皆が集る。
福徳円満とはこれ。どんな悪事災難が来ても平然として居られるだけのあきらめのついた人が本当の人。
これは易しいようで難しい。
之は紙一重。
死ぬと思うも生きると思うも迷い。
生きて居ると思うは迷い。
生きて居ながら屍も同然。
それならば死んで居るのかと言ったら死んでは居ない。
一人来て一人帰るも吾なるに、道をしへんと言うぞおかしき。 蜷川新左エ門
一人来て一人帰るも迷なり、来らず去らぬ道を教へむ     一休
之は禅の公案。公案は自分の魂の探智法。之を考へて居るうちにたまし日を見つけ出す。
之の問題を解決する事は問題でない。
人間は命がほしいから災難がこわい。
生命いらねばおそるるものなし。
くいあらためる、さんげすると宗教で言ふ。
本当に心の底からこれはわるかったと悔い改める人は幸せ。
然し悔い改めても罪は消えるものでない。

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