未知日記講話集   こだま会日誌  九十七回    四月十二日

泰岳貴尊講義    第九十七回    こだま会日記    


慈音は今日も具合が悪いから休みたいと言ったのを、円海がいけないと休ませず話をしているわけ。
今日は直接ためになる話をする。
二、三日前に飛行機が墜落して全員が死んだ。之を聞いて皆はうわさをしている。わずか四十足らずの人間が死んでそれが地名の士とか何とか言って騒ぐ。だが天災で何千万と言ふ人が死んでいる。之に対してあまりに無関心。
一人や二人の死で騒ぐ。然し何万と死んでもそうですかですます。之は何故か。何万人死んだら涙も流さず通夜にも行かない。之でよいものか。之は知らない人だから・・・・
こんな事では民主主義も何もない。死んでしまった人間なら焼いてそれで終り。
二十何億の地球上の人間は皆兄弟である。皆が欠けては困るはず。
自国の為にやいやい言う。地球の人間が共に、手を携へて行けばよいわけ。一人としてあますものを作らない様に。魂くずはどうなるか。之も無駄にはしていない。
一匹の黴菌でも大自然がこさへたものなら決して粗末にしない。皆、それ相応の務めあり。無駄にすることはない。一時に何万と殺す様な事をなぜするか。
大自然は雑草の一つをも決してなほざりにしない。
大自然は之を時には悲しみ、時には喜んで壊滅せしむる場合もある。他を利して後はじめて自らの利ありと思って神や大自然に接せねばならぬ。



四月十九日      円海大師未知日記講話    第九十七回


慈音は気が小さいのか、控えめと言ふのか、又話を誤り伝へてはとの心からか、いろいろそんなものがこんがらがって臆病になりやすいので、身体の事は心配なく勇気を出せと言っているが、今二重の修行をしている。
今話をして居る間も外の行をしている。
今日は行もほとんど終りに近い程進んでいる。身体には欠点が多いが精神は進歩している。
この行が終れば楽であるがここしばらくはつらい。もう一歩登れば頂上だから道はけはしくなって居る様な形。
皆さんにはたましひと心との区別が今までの話によって理解された事と思ふが、然しここに信仰と言ふ事の上に困難がある。
信仰を強くすればする程、念の力が加わる。念力。
念の力が強くなる程信仰の度が高まる。ここにとんでもない過ちが出来るから、いつもこの会に来る事。
念の力を正しく使う事。誤まてば悪魔の念となり、正しければ仏の念となる。
今はまちがいないが、家族のものに心ひかれて一つの念となる時は、とんでもないまちがいを起す。
一方は信仰の度を増し、 一方は念の力を増す。慈声もこの辺からが大事。
心力を念力にかへたとしたらとんでもない事になり、心力と念力を一体化したものになる事が大事。
この会で(こだま会)でうっかり話を聞いて居るが、その間に心力念力が強くなっている。
幽霊  これは常識から考へるとばかばしい話。
之は正体見たり枯れ尾花で、どこにでもあるものでない。心の迷ひだと言ふ。
然しそうでない。
カネを集めて金に未練を残して死んだ人が夜な夜な現はれる。之は念が残ったもの。その念が働く。念を残してはいけない。
念は魂と共に昇天する程の念なら、これは仏。
天界の事を認識せず、心力に念力を伴って肉体を離れたら空中楼閣を作る。
慈音の母の如し。念の力が消滅するとたましひ丈になる。之ではじめて楼閣が破壊されてしまう。  執念、妄念、邪念。
普通の力では勝てない、死んでとり殺してやろう等の念がおそろしい事になる。
念をのこさない様にするにはその念を昇天させる。極楽にやる。
魂と共に昇天させる丈の修行をする事。
自分の身内で例へば親を失った様な場合、親に会い度の思いが念となって段々と向上して来ると錯覚を起す。之は念の作用。
あきらめさせる方法で念をほごしてやる。
そおして慈音が多くの亡者を救っている。
仏教では三十年たつと(念が?)とれると言うがそおは行かない。
楠木正成の七世論の如く長く残る人がある。
仏教では因縁と言ふが、そおではない。成就してもさつぱり片付くものでない。
執念邪念は残さぬ様に。
皆は未だたましひも心も区別がつかぬ程だから見えないが、自分で知らなくてもうらみの念は電気だから感じて来る。  むしの知らせ。
念の力がなければ信仰の度はたかまらぬ。
皆の拝みは唯ぼんやりした拝みで念にならぬ。かんぜよりを作るにひねならずして唯紙を切った丈の様なもの。念はきたへる。 みのり。 念は稔なり。
信力と念力とが一体化してはじめて仏となる。
これまで行かねば本当にならぬ。
信ずる力は大自然に順ずる。
悪い宗教に入ると悪い念を伴う。
慈音が念力かへて畜生道に入った事がある。その苦しさは未だに忘れない。


 五月三日、十日 二回 九州旅行にて講を休む  坂本

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