こだま会講演日記    第九十六回   坂本通博 筆記

四月十二日


皆さんは肉体のわづらいは医薬でなほすが、心のわづらひは何でなほすか。
若い人は自殺することを平気でやる。心の悩みに耐えられないから死ぬ。
肉体のわづらいより心のわづらいがつらいらしい。
結核になって長わづらいしても三年四年となほるまでじっと待っている。
この間も心のはたらきは休まない。
身体が言うことをきかないと心がいらいらする。そこで心の悩みに耐えかねて自殺する。
人間は死ぬのは何時でも出来る。死んだら心の悩みも取れると思ふのが一般の心である。然し人間はそんなに簡単には作られて居ない。
心の悩みは魂に頼んで取ってもらはねばならぬ。
心とたましひの区別がはっきりわかる様になるのが信仰。信念、念は信じた稔り。
自分よりすぐれたものにまかせれば救はれると言ふ念。
皆は心ばかりたよっている。
神仏に願って居れば助けてもらう。この考へは違ふ。
之は片信仰、何もならぬ。自分が弱いから助けてもらふと言ふ卑怯な心。
困難がある程強くなる信仰。悪い事が重なる程、何こんな事位と考へる事。
わづかな悩み苦しみに負けてしまって死ぬような卑怯な信仰ではだめ。
悪い事があるたびに有り難い神様のおめぐみと思ふ事。
私は神信心して居るから災難はこないのだと一方的に考へてはだめ。神や仏の力が心配や苦労を与へて下さって力つけて下さるのだと考へる事。わづらひの有る度に人間は信仰の力が強くなるのだと思ふ事。
これだけの覚悟をもって信仰せねばならぬ。之が修養修行。
よい事ばかり続いている人は不幸。
雨に打たれ風に吹かれてなやみ苦しんで成長した木でないとよい材木にならぬ。
信仰の力=念力
修養修行のない人はすぐへこたれる。そして一寸した事に泣いたり怒ったりわめいたりする。
刹那々々のもの、之は人間のくず。後で後悔しても何にもならぬことになる。
本当の信仰者はそんなことに動じない。
ぐっと腹を据えて常にたましひにまかせる。
こうなったら怒ってよいか悲しんでよいか、魂と心に相談してからやる。
そうしたら千万人の所へ乗り込んでも平気でそこを突破することが出来る。
皆は未だ円海にまかせていない。
慈音さえも完全にまかせていない。だから皆は慈音のそばを離れるとすぐ元にかへる。
私達は皆に姿が見えないから迷うのは無理もないが、然しこの頼りないものを信じるには目当てが欲しい。
それには円海と言う名前。
之は小さな雪だるまからころころころがして大きくなるまで育ててもらう。
これが信仰。
よい事があっても悪い事があっても喜ぶ事。法然が念仏を信じ、
たとへ地獄に行っても之を信じると言った。
私の念仏が至らないからだと考へる。
心もたましひもやり場のない様な信仰では苦しいばかり。
悪い事があっても之は道筋で難所だ。之を通り抜ければ又平地へて出られる。昼あれば夜。善い事があれば悪い事がある。人間はそんな所に生まれて来ている。
今度天界に導かれたら絶対境ではそんな事はない。
一寸した事に腹を立て泣くは心の迷い。之を取ってしまう事。
いつはりの世辞は慎む、それはあとになって却って喧嘩の種になる。

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