こだま会講演日記    第九十回   坂本通博 筆記

三月一日


婦人と赤白の糸巻きの話(之は宗教的の尺度、善悪者邪正の尺度)


尺度計はこれである。
人間には一生涯のうちに八十一回の大難に合はねば本当の人間になれないと宗教者は教へる。之は破壊(20年)分解(40年)融和(60年)組織(80年)の四期四段階を終らねば本当の人間になれないのだと言ふ。之を八十一難と言ふ。一分計は一つの節、之が難。そして二分計三分計と朝から晩までの間に八十一回の異った事をやって居る。之が心の廻転。
時には泣き、笑ひ、腹を立てる。之は破壊分解融和組織。
一日のうちにも様々に変化して行く。之が一分計。一年二年三年四年と年々変はって来る。
五分計となると五分の目盛にそれまでにした事が清算されている。
一分計も五分計も一尺計も同じに清算せられている。
知らず知らずに之が行はれて居る。九に九を重ねて八十一の難儀。
難があるので人間は修養が出来る。これがないと何もわからずに世を終わる。
大難があるほど人間は修養が出来る。
人間はどんな困苦にもたえられる力を養って居ないといけない。難がある程喜んですべし。人のしんどは買ってもせよと言ふ位な修行をする事。もうたまらないと倒れてしまう様では人間でない。
難に会って平気でそれを逃れる考へをする。どんな難に会ってもニコニコ笑ひながら切り抜けて行く様にする。人間は少しでも苦しみから逃れ様、楽をし様と思ふから修養ができない。此の世は未来の楽しみの為に与えられた神の慈悲だと思ひ、喜んで之に当たり苦しみを喜んで世を渡れ。私は師の痛棒は慈悲の痛棒だから一つでも余計に棒を受け様と思ふ様になってから行が進んだ。痛棒をさけ様として居る間は行は進まなかった。苦難は神のおぼしめしだ、神の慈悲だと思ふから有りがたいと思って受ける。

自分が罪を犯して受ける罪はいけない。己罪を犯さず、それでも受ける罪は慈悲。凡夫は過ち多し。己に出でて己に帰る。之は己が清算するのは自然の道理。之は一分計。五分計には之はない。それ丈修行の徳が積まれて居るわけだから、自分がつみを作る事はない。然し自然のつみは致し方がない。如何に長命を望んでも寿命が来れば死す。之は自然の法で致し方なし。
人間の生活程面白いものはない。
早く死する喜び、長命する喜び、の二種にわかれる。人間は百年いたづらに食ひつぶしたのでは何にもならぬ。人間は何の為に生きて居るのか、尺度計で計って見よ。
百年生かされているうちに、一日でもよい、「人間というもの」を知ればよい。゛親が勝手にこしらへたのだから仕方なく生きている゛ではいけない。
万物霊長になつて何にする。
此の世の中を建設する為に・・・・何の為に建設する。
人間を知る事が大切。百年千年生きても人間を知らずに居ては何にもならぬ。
ああなる程、人間と言ふものに生んでくれた大自然と言ふものは有り難いものだと分かれば、七歳の童子でも死んで悔ひはない。

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