未知日記講話集   こだま会講演日記    第四十五回   坂本通博 筆記

昭和二十六年三月三日


先ず自らを愛せよ。
本当の愛を知る人は少なし。動物性執着愛多し。他人を愛することを得るや。
之は言ふべくして行ひがたかるべし。
本当に自分を愛して居る人はない。
先ず自分にたちかへって本当に自分の身体を愛すべし。
自分であって自分でない(四郎は不憫だと言ふ、慈音先生の話)
註 四郎は慈音の名前を教主寛大から頂く前の名前
自分の子供は自分の専有物だから可愛がる。
之は愛に似て愛にあらず。之執着愛。
自分を本当に愛する事が出来てはじめて我子を愛することが出來、そうしたら又他人を愛する様になる。
他人が自分と一如になるからである。
おいしくて食べ過ぎる、まずいと言って食べない。
美服を着たがる。之は愛にあらず。
子供本位の愛にあらず、自分本位になる。
自分を愛するのか子供を愛するのかわからない。遊女亀遊の話の如く、肉体は売っても魂に傷つけない。
「露をだに厭ふ大和の女郎花 ふるアメリカに袖はぬらさじ」
註 ふるあめりかに袖はぬらさじ』(ふるあめりかにそではぬらさじ)は、1970年に婦人公論で発表された有吉佐和子による短篇「亀遊の死」を、有吉が自身で戯曲化したもの。幕末の横浜が舞台の喜劇。初演は1972年の文学座公演、主演・お園は杉村春子が演じた。


一休と地獄大夫の話。(聞くよりも見て恐ろしき地獄かな  一休)
我死なば墓にはやるな野に棄ててやせたる犬の腹をこやせよ。
之等は自身を愛したるなり。
行者が雨風に身体をきたえ、自然食(生食)を食したるは身体を愛したればこそなし得たるなり。泰岳師は苦しさを知らず、行も行と思はず。本当に身体を愛してやれば苦しさはない
(いかに行ずるとも)
我子を愛していたつもりが悪んでいた事になる事多し。身体も本当に愛しているつもりが悪んだ事になる事多し。(毒を知りつつ美味とて食するなど)
自分の身体を愛するのだから悪い事はしない様にするはずだ。之を他におしすすめて

自他一如となる。(されば悪人を作ることなし)
之を即ち神は愛なりと言ふなり。
愛程おそろしきものなし。愛する事によって融和する。他人の欠点のみを数へて美点を挙げないで謗る。是等は自分の悪い所を(心の)きたなさを世間に吹聴するに同じ。
己善人たらんとして人を悪しく言ふ。之自らの非を話すなり。肉体を本当に愛して居れば肉体の苦痛はさのみ苦しきものにあらず。心の悩みが苦しいのである。泰岳師の逆つるしの行。二日しても平気だった話。
人間は魂をつくるを目的として、天より動物性の人間をこしらへて魂を実らせる役目で作られた。愛語 二枚舌にならぬ様に愛語を発すべし。
向かい合っての愛語は心を楽しくす。影での愛語は胆(きも)に銘ず。
愛語は君主を和解せしめ、怨敵も降伏せしむ。本心より出でたる、二枚舌ならぬお世辞なるべし。一日三度我を愛しているかかをためす。(省みる)

×

非ログインユーザーとして返信する