大霊界を転記し終えて

 僕は何年か前にこの未知日記全巻を家族のために中古のコピー機を買ってA3判に拡大コピ-したことがあります。全巻、それも三人分ですから置き場所に困る程でした。原書は字も小さく文章も余白がないほどびっしりと詰まっていて、老人の眼には僕も含めて、なかなか読みづらいものでした。当時九〇才を過ぎていた母親もその拡大版を机に広げてよく読んでおりました。その姿は僕にとって、とても有り難い光景でした。母は十七才の頃、自分の父親に連れられ信仰の道(日本神道)へと入り、その縁でもって、今僕もこうして未知日記を読まさせて戴く機縁となっている。いわば祖父は僕にとっても導きの親ともいうべき存在です。母の言によれば、祖父は若き時から信仰の道を模索していたようで、今日は此処の門、明日は彼方の門とそこら中の教えを聞きまくっていたそうです。祖父の友人、知己などはたえず一カ所に安住することなく始終転々とするその様をみて嘲り、股のぞきの元吉さんと揶揄されたそうな。でも僕に云わせればたえず何かを求め続けて、漸く自分の得心する教えに出会えた祖父は立派だったと思います。祖父の喜悦や如何であったかは想像に難くはない。
 それ故、祖父は晩年に生れた一人娘の母を殊のほか可愛がり、何処に行くにも母を連れていったそうです。その娘の頃の母の写真が今、母の遺影の横に飾られている。


 この町ではいまも大概の人は浄土真宗の教えに帰依しているが、それは内容を深く吟味することなく、唯、ご先祖様からずっと継承されてきたものだからだと云う至極単純な理由によるものが大きい。斯く言う、僕も若き頃より祖父と同じく幾つかの門を経廻り、宗教遍歴した者でした。当然親鸞の教えも深く傾聴し、関連の書籍などを読みまくった。しかし葬式仏教に堕してしまっている今の浄土真宗には常に懐疑的であった自分がいた。本来ならば祖師の教えに回帰すべくあの教団の中から若き僧達の決起があって然るべきなのだがそれもなかった。仮にあの教団の中にかっての親鸞そのものが現れたとしても恐らくは教団はその人を破戒僧として封殺し葬りさるに違いない。大衆の信の救済を主目的にして導く必要あるものが、いつしか教団の維持、拡張にのみ血道をあげ奔走している。この腐敗堕落した現状を親鸞が天界よりみるならば、詰まらぬものを作ってしまったと慚愧の思いで嘆かれるに違いない。いかなる組織も大きくなればなるほど内部から自然と腐臭を発し腐敗してゆくものだ。 


 与謝野晶子の歌 一首が頭をよぎる。「治承寿永の御国母、九十にして経読ます寺」
日本で九十才を過ぎて未知日記の書を読むのはおそらく故松尾さんについで母は二番目だったろうな。いつもその書を押し戴いて読んでおりました。本当に有り難いことでした。是を書いている時、仏間から妻の読誦する声が聞こえる。彼女は母の遺影に向かい、一心に未知日記の書を読み上げている。それが彼女の日課でもあり、また至福法悦の時でもあるのでしょう。当初はこんな難しい本など私には読めないとひどく難渋して居りましたが、いまではいつしか心の大きな支えとなり、それを今生での自分の果たすべき使命と迄考えるようになったようです。斯く云う僕も全くの無学無才の者ですが、この書は信もて神を呼びまつる念さえあれば読めるものです。残念なことに却って僅少の学問を持っている人程、この書を忌避するのかもしれません。それは自分が持っている狭隘な学問的常識を遙かに凌駕する程の智識、智慧、哲学を此の書が内包しているからにほかなりません。学校で教鞭をとる古文の教師が此の書を途中で放擲したとしても、「一文不知の尼入道」である妻は楽々と読むことができるのです。寛大はこの文章の所々に、読む者の心を明らかにせんがための法力を用いられて居られます。よって文字の改変は勿論の事、てにをはすら一言一句も変更してはならじと言明されている。

又テツシン貴尊はこの書の冒頭に「古来より日本は言霊の国と称して言葉に魂を通はせ居たりしに、現今はその言葉に制限を加へたるため後世、此書を読まんとするものありとも読むあたはず。理解することを得ざれば、如何に真実を語るとも無意味の書とならんことを、教主はよくわきまへ居らるるによって、此書の文体或は言葉等、すべてに意を用いらるる事と我等は承知す。教主は名文美文を好み給はず。後世に到って誤ちたる解釈をなすものあらば、残して詮なき廃書となるを深く慮っての教へなれば、よくよく心して教主の言葉に批判を加ふることなかれ。又文書言葉の拙なしと嘲りて、軽々しく聞きのがすことをせざるやう注意してかしこみて聴くべし。
前編の終末は無言詞にて終りを告げたり。後編なる此書に於ても亦無言詞にて終りとなる。されど前編と後編との隔たりは非常に相違あり。教主の最後の教訓は我等も共に威儀を正して拝聴す。汝等此恩恵にあづかる者、慎みかしこみて拝聴すべし。唯心の表面に止めをきて聴聞せば其は空しき結果となる。されば心の底迄徹底せしめて拝聴せよ。一時的の感情に囚はれて教へにあづかることなかれ
と仰って居られます。
 僕はいままでにこの大霊界の書を一七回読んで今回で一八回目の挑戦になりますが、不思議なことに飽きがこないのです。では読むことによって少しはお前は法力なるものが身に付いたかと、問われたら恥ずかしい話全然そのようなものはございません。唯、単なるそこらの市井に居る好々爺そのものです。でも此の書を読むことによって厳戒の辞の大事さをより深く知り、それを行じて、一人でもより多くの人にそのことを伝えるべく、奮励の気が日毎に漲る思いでおります。

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