未知日記講話集  大霊界  二人の天使の例話  教主寛大講義

未知日記講話集   二人の天使の例話  教主寛大講義


 汝等諸子は、常に無言詞界の言葉を聞きて、有言詞に囚はるること勿れ。すべてを無言詞にまかせよ。無言詞は汝等諸子に罪となることを教へざる故なり。もし無言詞より罪となるべきことを教へられたるならば、其は心の働きにして魂のはたらきにあらず。心にも無言詞あり。魂にも無言詞あるが故なり。是を区別することは有言詞となりて、はじめてその何れなるかを理解すること難きにあらず。心の無言詞はややもすれば過誤多し。されど魂の無言詞は決して過誤を教ゆるものにあらず。されど心の無言詞はややもすれば悪を伝ふること多し。其は動物性本能の現はるる故なり。修養修行の徳によって浄化せられたる心なれば、心と雖も過誤を伝ふることは少なし。魂の無言詞によって判断せずば正しからず。心も浄化せられて人間性に化せられたる人の心の無言詞と雖も、心のみにては正しからざる教へをなすこともあるなり。其は肉体と云ふ動物性が未だ浄化し居らざるが故に誤つ。心と肉体の関係は人間性に化せられ居る人に於てすら、尚斯くの如し。故に魂より出づる無言詞にあらざれば、真の教へにはあらざるなりと承知せよ。未知日記に於て語りたる如く、或僧が己の弟の放埒を改めしめし一滴の涙は、是魂の無言詞がはたらきたる故なり。わずか一滴のなみだにて弟の心が迷夢より醒めたりと云ふ如き力は、心にてはなし得るものにあらず。是等の道理をよくよく悟りて修養の道を広くせよ。清浄無垢なる人とならば、神は是を祝福す。心のみの無言詞は決して神の祝福を受くること能はざるなり。たとひその事柄の大小に不拘、心の範囲は狭きが故なり。何となれば百人の善者を愛するか、一人の悪者を愛するかとしてここに修養の道を考へよ。汝等諸子は思ふならん。
百人の善者は愛すれど、一人の悪人は憎みて遠ざくるなりと考ゆるならば其は誤ちにてはあらざるかと云ふことに対して、先づ考究せんことを我等は望むなり。是等に関しては我等と諸子の考へは全く表裏の関係あるやも計られず。故に暫し是を汝等諸子の修養材料として与へをくべし。此事柄に対しては、未知日記に於て語りをきたれば先づ是を参考とせよ。即ち其は神より命ぜられたる天使二人が、下界に下りて一人が千人を導きたりと云ひ、一人はわづかの人を導きしと云ひし例話を参照せば可ならん。又ある僧が一人の徒弟が悪事をなし、数多の徒弟より彼を放逐せよと迫られて、その多くの弟子に去れよと教へし例話等より考ふれば、我等の説と汝等が思ひと同一なるか、はた又異なり居るかを考へなば明白ならん。汝等衆人の中には目前の利を考へて、大衆の言葉に従ふ例は尠からずあるならん。然して一人の語りし正しき言葉を斥けて、永久の利を失ふ如き例もあるならん。一時的の利益を考へて大衆に従ふは宜しきか。永久の利を考へて一人の言葉に従ふが利益かの、何れをよしとするや。是等は諸子の考へに任すべし。
 其はとにかく空無の無言詞は力無き如く見ゆれど、是が事実にあらはれて、始めて其力の程度を知るに至る故に、無言詞はものの大小を論ぜざるなり。即ち小にも通じ、大にも通ず。故に無言詞界に到ってその真相をきはむるにあらざれば、実在的より如何に想像すともおよばざること遙かに遠からん。その無言詞界を通過するにあらざれば、大霊界へは進み入ることあたはず。是を知らんとせば実も空なり、空も実なりと云ふことの原理を、認識把握するにあらざれば、目的は達し難きことも推して知らるるならん。是等の道理を知らんとて全宇宙にのみ重点ををきて、その全宇宙の真相をきはめんと努力すとも、到底及ばざることは言ふ迄もなし。されば何によってこの理を知ることを得るやと云ふに、即ち全宇宙の具備が縮小されて、現存なしたるは汝等の肉体なるべし。よって、汝等の肉体を全宇宙と心得て、その肉体を基として研究なすほか他に方法はあらざるなり。汝等諸子は斯くも偉大なるものを授けられあるに不拘、是によって道を求めんとせず、訳もなき悪戯事にのみ、囚はれ居りては、神の慈悲に対する任務を果す事あたはず。早くめざめて反省したるものこそ勝利者なり。其者こそ神の使命を全うしたる人なるべし。

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