未知日記講話集  二人の刀鍛冶師の例話   教主寛大講義

未知日記講話集  二人の刀鍛冶師の話   教主寛大講義

 汝等諸子は天分とは何かすら知らざるならん。己に架せられたる天分をも知らざるは、斯る大なる恩恵の徳に潤ひ得る事を解せざるが故なり。芸術家は芸術によって天分を知り、農夫は農によって、天分を知る。是等はその道によって、己の肉体が偉大なるものなりと云ふことを認識する具備を、有し居るによって知ることを得るなり。然るに芸術家は其伎にのみ囚はれて、大切なるさとりを得ることあたはずして終る人は多し。ここに一例をあげて参考とせん。
 或一人の男路傍の草に耳を傾けてありけるを、通行人是を見て不審に思ひ、汝は何をなし居るかとたづねたるに、其者曰く「我、草の伸び行く音を聞き居るなり」と通行人訝りて斯るものに音ありやと聞けば、彼の者曰く「草の伸び行く力には大なる音あるなり。我小さき時より耳の力衆人にすぐれ、千里万里の音はもとより聞え、虫などの語る言葉も我には聞ゆ。然して我には最早聞えざるものなし。故に成長する音を聞き居るなり」と語りたりと云ふ例話なり。
 旅人彼に問ひて、曰く「汝は今足もとを匍匐(はい)居る蟻の声聞ゆるや」と。彼、曰く「此蟻は遙彼方の処に果物のあるを、仲間の者に教へて是を運ばんと、語り居るなり」と。彼の旅人その真相をたしかめんとて、その蟻の行く方向に足をむけたるに果して彼の云ひし如くなりしと。斯る話はもとより小児に語るお伽噺ならんも、我等に云はしむれば、其は作り話と云はんより寧ろ、真実の説なりと語るとも、過誤にはあらざるなり。その真偽はとにかくとして、この例話によって汝等衆人何か得るものはあらざるか。人にはすべてその人々の分野に応じて授けられ居るものなれば、草の音を聞き居り人が、その智能を完全にはたらかせて他の方向に歩を進めず、一路其によって邁進なし居らば、彼は天界の人と引き上げらるるは是使命を全うするによってなり。然るにその智能をはたらかせず、唯耳にのみ囚はれて聞くと云ふことにのみ心おきて、彼是迷ひ居らば、彼は不思議なる人なりと云ふ世間の噂の種子になりて終るの他なからん。斯ることにて終らば即ち使命を果したりとは云ひ難く、又天分を全うしたりとは云はれざるなり。我等剣客の秘伝を聞けば、剣は身を修むる資料にして他を害せんとする器具にあらずと語り居れり。剣によって己が肉体に架せられたる、大なる宇宙の真相を究めんとする用具にあらざれば、剣を学びても益なしとの戒めならん。
 又一人の刀鍛冶が二人の弟子に、汝等両人心をこめて剣を作れ。然してすぐれたるを作りたるものに、我が秘伝を授くべしとて、両人に剣を作らせたり。然してその作り上げたる二振の刀をもちて川に到り、汝等両人上流より藁を流し見よとて、その流れ行くを見てありしに、藁は流れ来りて一振りの刀には切られ、一振りの刀には藁は横に反れて流れ行きたり。是を見たる刀鍛冶は弟子に語りて、曰く「一人の剣はよく切れたり。今一人の剣は切れずして藁は遁げたり。よって藁のにげたるものの刀こそ、すぐれたる剣なり。よって秘伝は藁の逃げたるものに授けんと。切れたる方の弟子いぶかりて、我の剣はよく切れたるに反し、彼の剣は切れずして藁の通過したるは、我の技量が彼よりすぐれ居るにてはあらざるか。鍛冶師、曰く「汝の剣は世を害する剣にして、世を治むる剣にあらず。藁の逃げたるは剣を恐るるが故に、藁はにげたるなり。然らばその事実を示さん」とて、藁を水中に 抛げて、水に刀を入れず空処を切りたるに、藁は二つに裂けて流れたりと云ふ。これを見たる一方の弟子己の非を悔いて、その後は世を治むる剣を作らんと、努力したりと云ふ逸話もあり。無言詞の威徳は斯くの如きところにも見られ居るなり。伎に囚はるればかくの如く世を害する剣ともなり、心に囚はるれば世を治る剣となる。我等常に諸子に語り居る如く、小児の言葉と雖も濫に聞き流す勿れと諭し居るは、斯る小さきことに於ても意を用い居らば、己が天分を知る資料を得る導きとなること、あるによってなりと知るべし。同じ剣を作るに於ても、霊気を主とし実間を旨として作製らば、斯くも相違あるなり。霊気は世を治め、実間は世を破壊すと云ふ教へを、認識することを得たらば、如何に霊気の偉大なる力あることに心附くならん。

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