未知日記講話集 大霊界 未来観その五c  教主寛大講義

汝等諸子はこの例話によって、不滅の霊とは如何なるものかを想像し見よ。禅門の僧が口ずさみたる短歌に「本来の面目坊の立姿一眼見しより恋となりけり」と云へるあらん。然るに諸子は其面目坊を形あるものの如く聯想するに依って、霊魂の如何なるものかを見ることあたはず。この姿を見きはめんとなして苦み居るならん。形あるものは霊にあらず。汝等諸子に与へられ居る自然の具備(そなはり)こそ霊魂なりと云ふ所迄、究めずば知ること難し。小児が口ずさみたる歌の意味をよくよく咀嚼玩味せよ。又狼が周囲を廻りたりと云ふ事に対して、考案工夫なしなば、自ずと霊気の如何なるかは察せられるならん。この二つの考案資料を諸子の修行の材料として与へおくべし。是に依って霊魂を発見せよ。然して正しい面目坊を恋する迄、修業せば人間に与へられたる魂の何なるかは、自ずと諒解することを得ん。又その方法も従ってあみ出すことを得るならん。
よって小時の間是が説明を与へずして宿題となしおかん。
 我等はかねがね語り居る如く霊は零なりと教へ居るに不拘、諸子は今尚霊に対して何処迄も形に囚はれて、霊の真髄に触るること難きによって、霊のはたらきを知らざるなり。霊とは光明なりと語れば、其をすら太陽の光の如く思ひて、尚も形を想像するによって、光明とは如何なるものかを認識することを得ざるなり。
彼の例話に聞く如く忽然として現はれ、忽然として消えたる狼も光明なり。又呵々と笑ひし声も共に光明なり。所謂音も光明なり。音響も光明なりとして霊を考へよ。汝諸子に架せられたる運命と云ふもみな光明に他ならず。煩悩と云ふも亦光明の一種なり。故に心は光明なり。一切衆生悉くみな光明によって生存す。形あるもの凡ては光明によって現はれたるものなりとして研究せよ。然る時は不滅の理論は成立す。
此理より察すれば、光明遍照十方世界と云ふ言葉の意味は諒解するならん。又念仏によって往生なし得ると云ふ教へも空しきものにあらず。その説きかたを正しく認識せざれば、往生の得難き事も亦推して知らるるならん。
凡ての物事は解釈の仕方によって如何ともなるなり。
笑話の中に鰈(かれい)と云ふ魚を四匹贈りたるに、贈られたる人が四匹と云数は四(死)を意味するが故に縁起悪しと云ひて腹たてしと云ふに、おくりぬし是に対して、然らず、すべては四鰈(よかれ)々々と思ひて贈りたるなりと。然るに贈られたる彼は然ありしか、我は又縁起悪ければ、すべては四鰈(しかれ)々々との意味ならんと思ひてしかりたるなりと、互いに笑ひたりと云ふ笑話あり。ものの解(と)りかたにては斯くも解釈の相違して為に喜びも怒りとなり、怒りも又喜悦と変ず。されば諸子は日々の生活に対しても怒りを喜悦に変へることに努力せば、凡ては喜悦となりて怒るにも及ぶまじ。怒らずば心娯し。
心楽しければ美はしき姿となりて魂に通ず。美はしき方向に向ひて心を送らば、魂は汚れを厭ふが故に美はしきを喜ぶ。心魂たのしければ霊も亦たのしからん。
斯くして融和を計らば自ずと同化して一如の境涯となる。禅とは善なるべし。悪を貯へて禅すとも効果うすきは当然ならん。魂を求めんとする心は善なるが
故に同化すれば、忽ち発見することを得れど、斯くせばよからんか、斯くせば発見するかと云ふ迷ひの心にて努力すとも迷ひの心は悪なり。故に、見ることを得ざるなり。汝等衆人この事をよくよく悟りて、如何なる事をも美はしき方向に心を転換せよ。然する事によって心魂霊を清浄ならしめよ。

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