未知日記講話集  大霊界  無言詞界の門を過ぎては如何 一個人の働きが各所に鉄管を通じて分散せしむれば、すべての他をも救ふこと難きにあらず。これ即ち棄執着の法と云ふなり。汝等衆人は己の池を大切にして他に送らんとなさず。後生大事に水を蓄へ居るによって混濁して、果は要を弁ずるに至らざるなり。かかる手近なる処にすら教へはあるなり  教主寛大講義

無詞界の門をすぎての後は如何      その3     
                    教主寛大 講述



 偏らざる心を養ふにあらざれば.棄執着はなり難し。己を捨てよと云ふは己を放棄せよと云ふにあらず。又捨てよと云はるるとも己ある以上捨てらるるものにあらず。捨てよと云ふは即ち八方十方に平均して一方に偏らず、すべてに光明を輝かせよと云ふなり。是を常に平らなる心と云ふなり。是等の事実は汝等、衆人日々使用し居る水道によっても察せられるならん。大なる池を造り其水をそのままになしをきなば、混濁してその処に止まるのみ。されどその水を鉄管にて各所に分散なすにより汝等衆人は、その恩恵を受け居る事に心せよ。一個の池は汝等衆人の一個人なり。その一個人の働きが各所に鉄管を通じて分散せしむれば、すべての他をも救ふこと難きにあらず。これ即ち棄執着の法と云ふなり。汝等衆人は己の池を大切にして他に送らんとなさず。後生大事に水を蓄へ居るによって混濁して、果は要を弁ずるに至らざるなり。かかる手近なる処にすら教へはあるなり。
己を捨つれば己が空虚になると考ふるが故に捨て難きなり。池の水は鉄管によって各所に運ばれ居れど、天の恩恵は雨を降らしてその池を旱かさざるべし。この理をよくよく悟りなば修養修行の大切なることも推して知らるるならん。池の水を枯らし尽しなば多くの田を養ふ事難し。修養修行を重ねて常に池の水を枯らさざる要心肝要なるべし。この事あるによって修養修行の一大事は推して知らるるならん。
 ミキョウ、セイキョウ、テッシンが行じ居るもみなこの事あるによってなり。ミキョウは十界の人を救ふ力あればセイキョウは五十界百界の人を救ひ、テッシンは万界の人を救ふ如く、皆其々修養修行の力によって斯くも伸びゆくなり。彼等は己自らのために行じ居るにあらず。皆すべて宇宙全宇宙のために、任務をなし居ると承知せよ。
 ミキョウ、セイキョゥ、テッシンは欲望ありて行じ居るにあらず。己の任務を全うせんがために励み居るなり。此行ひをなして此報酬を受けんなどと云ふが如き、愚かなる考へにて学し居りなば到底己が使命を全うすること難し。己に架せられたる任務を、果さんがための任務に他ならず。此行為をなして此報酬を受けんなどと云ふが如き考へは汝等衆人の心ならん。斯る心を早く捨てよ。然らずば到底己が本分を全うすること難し。
 余事は兎に角として無言詞界の門を通過して学業を重ね、軈てミキョウの座になおさるればその後の学問は、益々その度を加ふるによって従来とは異なり、汝等衆人の世界にて云ふならば、分秒の間もおろそかにする事は許されざるなり。学びたる上にも学びてその徳を重ね、然して次のセイキョウの座に移さるるなり。ミキョウよりセイキョウに至る迄の時間を汝等、衆人の世界にとりて云ふならば先づ百年は要するならん。されど此階に於ては僅かにしてさのみ長かりしとは思はざるなり。円海のミキョウは漸くミキョウとして許れたるのみにて、未だ学問の一厘をも修め居らざるなり。コ-セイミキョウは漸く一分の学を修めたるのみなり。然るに彼の力は泰岳として現はれてすら優れる働きをそなへ居るなり。
 我、斯ることを語るは汝等衆人に対して人はすべて智識を拡大すれば、はてしなくその徳を現はすを得る具備ある事を、知らしめんがためにて他に意味ありての事にあらず。即ち僅少の時間を有する肉体に囚はれ居りては、真の道の修め難きを知らしめんが為なり。この事より推測し見よ。肉体は大事か、精神が大事かに於て、何を択ぶべきかに心づくならん。魂の力は斯くも深淵なり。その事を知らずして唯一時の肉体に囚はれて、人には魂などあるべき筈なしとか語り居る無智の人さへあるは、真に遺憾の極みなり。されば今より心をひるがへして、精神の方向に進まんことを願ひて如何 ! 動物性にて終はりなば、人として人の道を知る事すら難し。現在の汝等衆人の世界は、斯くの如き無智者の余りに多きを我等は痛嘆するものなり。己に架せられたる任務は今後にあるなり。一時的の肉体は軈ては消滅す。早くめざめて正しき道に順ぜよと教ゆるなり。一歩あやまてば又もや同じ経路を屡々繰り返すに過ぎざるが故に、悩みは今後と雖も益々深刻とならん。

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