未知日記講話集   無言詞界をすぎての後は如何

無言詞界の門をすぎての後は如何      その2     
                    教主寛大 講述


 この門を通過したりとて直ちにミキョウの座にをかるるものにあらず。ミキョウの座に至る迄は又其々の学徳を修めざるべからず。この階に達すれば一時に数十種、数百種の教へを受くるなり。故に言葉などにて学し居りては、到底すべてを修得すること難し。されば言葉なくして数十種数百種の学徳を一時に教へられ、又是を一時に受け入るる力を具備ざるべからず。言葉などにて一々学し居りては、正しき教へを受くることあたはざるによつてなり。是を仮に汝等の世界に於て云ふならば、一人にて百事百般の事を行ひつつ、その傍らすべての学問を修むるに等しと知らば可ならん。人にものを教へながら己、自ら教へを受くるなどの事もなし得らるるなり。ミキョウは我等の教へを受け、然してミキョウの任務をなしながら、円海となりて下界の汝等を指導し居る等もみな、この事あるによってなり。例へば一人の裁判官が百人千人の裁判を一時になし得らるると聞かば、汝等諸子は不審するならん。されどこの階の学者は斯る事 は訳もなき事にて、又其上に己が使命をも果し、然して修養修行の業をなしつつその傍、百人千人の審判をも自由になし得らるる不可思議の力を備へ居るなり。汝等諸子より見る時は、是を神業の如く考ふるならん。されどそれは神業にも仏業にもあらざるなり。是等はすべて天地の道理に順応して、己と云ふ一個のものに囚はれず、己を離れて千万の働きをなす力を養ひ育てたるが故なり。己と云ふ一個のものに固着し居りては、到底斯る事はなし得らるるものにあらず。己一個を捨てて是を分身し、恰も光明のそれの如く八方十方に分散なさしめて、是にはたらきを与ふるによって斯くも、自由自在の行動をなすことを得るなり。自己を棄つると云ふは即ち是なり。捨つるが故に分身するなり。是即ち分身の原理にして敢へて不審するには足らざるなり。未知日記に於て汝等衆人は学したるならん。即ち棄執着の法と云ふは即ち是なり。執着するが故にすべては一方に集る。故に是を各部分に分ちなば皆其々に対して、それ相当の働きをなすは自由なり。是等を真の自由と云ふなり。故に平常心は大切なり。一方に心を止むれば執着して一方に片寄る。然して他のすべては空虚となる。この理は諸子もうなづき知る処ならん。

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