未知日記講話集   無言詞界の門をすぎての後は如何

無言詞界の門をすぎての後は如何      その1     
                    教主寛大 講述



 我、動物性をはなれて真実の人間になりたるが故に、天界の広大なるを知るに至りたりとの喜悦を、感ずる底に化せらるるにあらざれば、真の人とは云ひ難し。死して何になる事ぞとか、又生きて何になることぞとか口にする人は、天界を知らざるが故なり。死せんとのぞみても生きるものは生きるなり。長寿を望むとも肉体を捨つるべき時期に達すれば、如何になやむとも望みは達し難し。滅不滅は人力では如何ともなし難からん。人類として此世に生を受けたるもの、好むと好まざるに不拘なすべき任務はなさざるべからず。唯何になる事ぞと思ひて捨てんとするもそれは許されざるなり。かかる人は再三再四その苦を味はしめらるるの他なかるべし。
 一旦架せられたる以上、その任務を果してはじめて天分を全うすることを得るなり。架せられたる任務は、好むと好まざるに不拘、なし遂ぐるにあらざれば許さるるものにあらずと思ひて、唯己が分野を守り動物性を捨てて更に人間性へと進化する道を求むれば、其れにて任務の全きを得るなり。徒に自暴自棄に陥る勿れ。然して正しきさとりを得て、金銭財宝はもとより、名誉も地位も生命も欲しからぬと云ふ程度迄、修養所行せば其にてさとりは開らかるべし。斯る人こそ真の覚者と云ふなり。余儀なき諦めをなす勿れ。明らめは正しからざるべからず。
 天の高きを知りて唯無意義に、観望すとも何の価値もあらざるなり。到るべき処に到りてはじめて、真の事柄を知る。徒に観望なし居りては何等の価値もなし。美味美食なりとも眺め居りては、その味を知る事難からん。食ひてその味を知る。されば唯何事をも考へず到る所に一路邁進せよ。躊躇ふこと勿れ。積極的に事を運ばば望を達するも亦早し。然して我等の教への実不実をたしかめよ。汝等衆人我等の教へを空論となすなかれ。

  
      無言詞界の門をすぎての後は如何



 八大門の学業終はりて此門を通過し、ここにはじめて無言詞界に入る。この所に至らば是よりまた新しい任務を架せられるなり。この所に至らば全く従来とは事なり真の自由の身となりて、既に人間界を全く度脱したる姿となるなり。最早人間ならざる神の僕として皆其々の任務に服す。故に如何なる所に移さるるとも支障を来すことなく、又如何なる所に至るとも任務の上に於て少しもなやみはあらざるなり。されば魔界はもとより下界の監督を命ぜらるるとも、毫も差支なく命ぜらるるがままに任務に服すことを得るなり。魔界下界或は蝙蝠界又は天界に於て、みな其々の任務に服して誤ちなく、命ぜらるるがままに行動することを得るによって、自由自在の境涯と化せらるると知るべし。されど中天界上天界(仮称)の任務は許されざるなり。所謂ミキョウの座はこの所と知るべし。中天界はテッシンの座と知らば可ならん。
 天界の中にも皆其々階級ありて、汝等が現在教へられ居るセイキョウなどは天界の上位にをかれあるなり。テッシンもセイキョウも未だ神にはあらざるなりというひし言葉も、是によってほぼ察することを得たらん。是等によってインショウ、ミキョウとコ-セイ、ミキョウとの相違も推して知ることを得ん。天界にはみな其々の分野に応じて、その責にあたり居るが故に、同じミキョウの座にありても、その居を異にするは推して知らるるならん。
 汝等衆人釈迦の説きたる学説、キリストの説きたる聖書などより、我が説と対照して考へ見よ。我の言葉の間違ひなりしか間違ひならざりしかに対して、考慮せば明らかとならん。我等は汝等衆人に対して唯推理力より教へをなすにあらず。その真相を語りて教へ居ることに気附くならん。宗教者の教へは方便なるが故に、種々様々の方面より悪事を犯させざるよう導きをなすにすぎず。されと我等は宗教者にあらざれば、善悪の区別は兎に角真実を語りて、汝等衆人の手引きとなさんがために参考として語り居る迄なり。
無言詞界に至らば全宇宙は一目瞭然にして、何物をも見きはむるが故に、一つとして見えざるものあらざるなり。往かんとすれば忽ち到り、聞かんとすれば如何なる美音も聞え。すべてあます処なし。往くも復るも自由なり。ミキョウ、セイキョウ、テッシン等もこの居にありながら、尚も修行なし居るは中天界以上上天界(仮称)迄上らんとして励み居ると承知せよ。

付記 
下天界  ミキョウ、セイキョウ貴尊の領域(無言詞界)
中天界  テッシン貴尊の領域      (大霊界前門)
上天界  コーシン貴尊の領域      (大霊界後門) 

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