未知日記講話集  一方無言詞界の方向に進みたる者は如何に その一

未知日記講話集  教主寛大講義  一方無言詞界の方向に進みたる者は如何に



 我等、よく聞く言葉なるが、同じ生くるならば太く短くとも可なり。その日その日を安らかに暮らす方がましなりと称して悪しき行ひを敢てするものすらあるを見る。汝等衆人はたとえ分時なりとも安らかなることを願ひ居るならん。人となりて何になる事ぞの明めにて死する底の人ならば、悪き行ひをなして太く短く生るも可ならん。もし其が永続する性質のものならば、死しての後の苦みは如何あらんかを考へなば、其処に何か悟るべきものはあらざるか。地球は亡ぶることありしも空間は亡びざるべし。肉体亡ぶとも魂は亡びざるならん。空なる魂が亡ぶると考ふるが故に、肉体を有する間こそ楽しき生活にて終り度しとの迷ひを抱くならん。魂不滅の原理より明めの念を抱くならば、斯る迷ひは起らざるべし。空は実を作り、実は空にかへる。空実は一体なりとの明らめを得たる人ならば、斯る迷ひは起らざる筈なり。


又一方無言詞界に進みたるものは如何に


 如意界を離れて無言詞界の方向に向かはせられたるものは如何と云ふに、如意界と無言詞界との間にまた一種の新しき処ありて、此処にて暫く修行をなさざれば、無言詞界の門に入ることは許されざるなり。此所は非常に浄化せられたる場所にて、至って住み心地よき所にてこの所に至らば、此処は全く極楽世界なりとも見らるる程美はしくして寒暑の苦もなく、すべてのものは光明に抱かれて危険を覚へず、実に楽しき所なり。故に安養極楽とか或は天国とか云へる場所はこの所なりと思ひて唯々喜悦に充たされつつ暫くは、魂の安らかなるに歓喜に打たるる場所なれば、この所にて長く住まはんことを願ふものも少なからずあるなり。汝等衆人に対してこの事を語りなば、汝等衆人は直ちに肉体よりの感想によって種々様々の事柄を連想して、美はしき花美はしき景色と絵嘘事を脳裏に浮べて考ふるならん。されど汝等諸子が肉体にあてはめて是を語るならば、汝等諸子は我説を聞きて然る所ならば我等は行き度くなしと思ふならん。何となればこの所は肉体より云へば、眼にも見えず、耳にも聞えず、言葉もなく、謂はば盲聾唖者ばかりの住居に等しければなり。汝等衆人仮に盲聾唖者を連想し見よ。もし汝等が盲聾唖者とならば如何 !
 到底堪へ忍ぶこと難かるべし。この所は恰も盲聾唖者の住居の如くなるによって如何に想像すとも、到底諸子の考へにては思ひもよらざる場所にて、もし諸子が長くこの所に置るるとあらば唯、嘆き悲しむ他なかるべし。諸子にとりては地獄とも見らるるならん。
 然るに我は浄化せられたる場所、光明に包まれ居ると語りなば、是を聞きても諸子には到底理解すること難かるべし。諸子の世界とこの所とは、到底雲泥の差なるによってなり。諸子の住居(すめ)る世界は濁りに充たされたる所にて、浄化されたるにあらず。真の浄化されたる所とは、此場所を云ふなり。光明の世界と云ふも亦然り。諸子の魂は心の乱れによって常に汚れになやまされ居れど、この場所は洗い浄められて濁りなく真実浄化せられたる世界なるによって、濁りと云ふものあらざるに依って、この所は汚れし者の来るべき所にあらず。悪魔外道は影をも見すること難きが故に、追ひ払はれて来ることなし。故に何ものにも犯されず、安楽の場所なり。肉眼肉耳肉口の必要なくすべては通ず。故に全宇宙は一目瞭然として見られ、すべての音声は一時に聞え、一声万方に伝はると云ふ不可思議なる場所なれど、この所は修養修行の道場なるが故に、長く止まることを許されざるなり。

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