一方無言詞界の方向に進みたる者は その二  教主寛大講義

未知日記講話集  一方無言詞界の方向に進みたる者はその二                    教主寛大講義


 我今見んとすれば見られ、聞かんとすれば聞かれ、語らんとすれば言はるると説きたれど、是は行ずる者の意志によってのみ現はるる現象にて、もし上位のものよりふさがるれば見ること聞くこと言ふことも得られざるなり。其は未だその自由を与へられざるによってなり。例へば今汝の傍に一人の天使現はるとせんか、其者を見んとなすも見ることあたはず、聞かんとするも耳をふさがるれば聞くことあたはず、云はんとすれど口ふさがるれば問ふことも難し。この場所に於て充分の修養修行をなして許されずば、自由は得られざるなり。円海が来たりて行ぜし所は即ちこの場所なり。この場所より更に許されて無言詞界に入り、始めて昇天の行全きを得たるなりと知るべし。慈音はこの場所の見学を許されたれど、未だこの所にて行ずることは許されざるなり。汝等衆人の如く下界に置かれありとも、行力すぐれたらば斯る処に引き上げられて、修養修行することも得らるると承知せよ。例へ肉体を有すとも、天界の極妙をきはむること難きにはあらざるなり。
 先に語りし九八七流界の方向に向はせらるるものは、すべて肉体滅後の者に限られあれど、この階に移さるる者は肉体の有無に不拘、行なりて来らば許されて、修養の道は開かれある場所と承知せよ。我今語りし如く盲聾唖者の世界など聞かされなば、汝等諸子は恐れ戦きて斯る場所などへは到ることを好まざるべし。汝等衆人の魂はかくの如く醜く汚れたる衣をまとひ居るによって、斯くは感ずるなり。魂浄化せられて魂眼魂耳明らかとならば、喜びて来るならん。汝等衆人は日々汚れたるものを見もし聞きもし、或はそのものにふれて其が美はしとか汚れたりとかの区別を考へ居れど、我等の眼より見る時は、浄化せられたるもの一としてあらざるなり。諸子は純白のものを汚れなしと称し居れど、我等の眼より見る時は純白も汚れなり。何となれば白きものは色に染むるによってなり。故に汚れなり。如何なるものを以てすとも汚れざるものにあらざれば浄化とは云ひ難し。また美はしとも云はれざるなり。我等の眼より見る時は霊気は最も美はし。如何に汚さるるとも汚れに染みるものにあらず。故に美はし。されど空気には混合物ありて汚れ多し。空気と雖も霊気に化すれば美しくなるなり。霊気は空気を作る原素なるによってなり。
 この道場に於て魂眼魂耳を洗ひ浄むる修行をなして、汚れざる霊眼霊耳に化せらるれば始めて、真の自由は許されて、無言詞の門に入ることを得るなり。我等未知日記に於て宗教はみな宇相と語りし道理はこの事によりても知らるるならん。宗教は肉体本意として語り居るのみにて、天界のことに対し斯る処のありやなど語りしものはあらざるなり。是等は語りても詮なしと考へて語らざりしか、或は斯る所のありぞと知らざるため、唯未来を想像して彼是道を説きしかは知らねど、我等は汝等を導かんとして語り居るにて、宗教者にあらねばその真相のみを知らしめて衆人の参考に供するのみなれば、修養修行して来らんと思ふものは来るべし。好まざるものは来らずとも可ならん。其は汝等衆人の心まかせなり。我等は斯くせよと命ずるものにあらず。

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