父祖の足跡 9

花月楼を訪ねて 1


 昭和四十年頃、市内の繊維業を営む者およそ三十軒ほどが一つの組織を作り上げた。それは保育園、幼稚園、小学、中学、高校とすべての学生衣料を販売する組合だ。設立当初から父はそれに参画していた。およそ七年間ほどそこの副組合長を務めていた。平成元年から私が父に代わり其処の組合員になった。組合が組織され三十五周年を迎えるにあたり、それを記念して組合のあゆみを纏めることを私は提案した。全員の了承を得て先ずは一歩踏み出した。
一か月もすると原稿も段々と集まって来た。次に表紙はどうしたものかと考える。あれでもなし、これでもなしと更に考へに耽る。すると一瞬閃く。そうだ。あの花月楼の枝垂桜(しだれざくら)がいい。なぜなら組合とあの料亭との縁(えにし)は深い。組合は新年会を始め、役員会も何十年にも渉ってここを使ってきた。組合とは切っても切れない深い縁があるからだ。きっと古老の方は喜んで下さるだろう。
 私は女将に、今回発行する本の表紙に、この桜を使わせて頂きたい主旨を述べる。すると彼女は「ようござんす。いますぐ写真を用意します」と云ってすぐさま写真を取りに行かれた。いろんな角度からの写真が百枚位あったと思う。女将は今も毎年欠かさず写真が撮られているそうな。桜の季節だけでなく、四季折々の櫻の木の写真もあった。
「まだまだあるんだけど、何処かにしまっておいてチョットいまは解からないな」と仰る。彼女は丁度自分の愛娘の写真を眺めるように眼を細めて見入る。私は云ふ「貴女ほど櫻を愛する人も当地では珍しいですね。まるで女櫻守のようだ。夜な夜な桜の精が出てきて、女将さんに話しかけるじゃありませんか」「あら、櫻の精って居るの。怖いわ」
「居ますとも、ものの本によれば、それは素敵な美女らしいですよ。それを長年続けていると、やがて櫻の木と会話ができるようになるそうですよ」「あら、本当、一遍やってみようかしら」
 私は並べられた写真の中から、適当なものを十五枚程お借りしてきた。私は三十分近く玄関に座り、この料亭と櫻にまつわる話を聞いた。女将曰く、「この建物も人間様の年齢(とし)でいうと、卒寿をとうに越してしまいました。丁度人間で云ふ還暦にあたります頃に、角吉楼から花月楼と名称を変えました。古い時代の事は記憶も今は朧気ですが、戦時中は軍需工場の寮として利用されました。その為もあって、この花月楼の身体も相当傷つき痛みました。勝山の機屋さんが華やかなりし頃の、古い時代時代の赤茶けた写真を見ますと、このただずまいは頑固な位に手直しもせず、今日(こんにち)もそのまんまで懐かしいやら、恥ずかしいやら、それは丁度、人間様の皺みていなもの、シミみたいなものだと思います。私の身体もあちこちに随分とガタも出てきましてね。言いたくないですが年齢ですなア。でも、前庭にあるご存じのあの枝垂桜は、この建物より悠に樹齢を重ねて、白寿はとっくに越しています。花見時期には、それそれは艶やかに装おうさまは、私の自慢の種なんですよ。よくもこの年齢迄、彼女は風雪に耐えて頑張って来たものとしみじみ懐かしく、いとおしく思います。今も私は彼女の健気さに精一杯拍手してやりたい気持ちでおりましてね。でも世間では、きっと彼女の事を姥桜と呼んでいるんでしょう。四月初めの、あの匂うが如く咲き誇る絢爛の美は、とても言葉では云ひ表せません。あれを見ると、彼女はまだまだ妙齢の乙女のそれに見えます。だって岐阜の薄墨桜は確か千年以上も経って居るのでしょう。それと比べたらうちの桜木なんかはまだまだ若いもんですよ。

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