父祖の足跡 8  病床の母を見舞う孫と曾孫

母の病気見舞い 県外から駆けつける孫と曾孫


 当初、この「父祖の足跡」の構想を練った時、僕は真っ先に兄に相談した。一緒に父母の思い出を、そして父母だけではなく祖々父等のことも書いて見ないかと問いかけた。ところが兄夫婦の子供もは既に早世して、後継ぎがいない。「誰の為にそんなものを残すのか」と、逆問され、僕は言葉を失った。
ならば一人で書こう、書けるところ迄書いてみようと決定(けつじょう)し、今に至る。父が晩年パジャマ姿のままベッドから起きてきて、僕に昔のことを一人語りした光景が眼に焼きついている。父は何かを僕らに伝えたかったんだ。自分の生い立ち、自分を育んでくれた家族の事、そして今迄の粒々辛苦を重ねた人生の思いなどを孫や子に伝えたかったんだろう。父が若い時であれば、本来の筆達者な父ゆえ、きっと縦横無尽に筆を走らせたことだろう。僕の下手な文章を見て所々消込を入れたり、推敲したり、添削し、朱筆で文章を大幅に加筆したことだろう。おとっあん、出來は悪いけどこんなところで今はどうかこれで我慢してくれ・・・・・・
父はそれから一年も経たずに永眠した。早速、住職に法名を依頼する。もらった法名を見て愕然とした。父の名の一部をとって所々に適当な文字を張り付けた感じがしたからだ。
父は自分が見送った先祖には無理して院号をみな付けてもらっていた。その為、僕は父の法名には住職に院号をつけてもらった。院号代はいくらですかと住職に訊けば、御気持ちでよろしいとのこと、僕は確か三十万程払ったと思ふ。
しかし僕は母親が死んだ時は、母親の法名を自分で付けた。慈音先生の慈を頂き慈照とした。ついでに妻にも付けた。衛藤慈声さんの名をそのまま頂き慈声とした。二人の名はともに教主寛大が命名された。寛大から直截に法名を下賜されたのは地球上で慈音さんと慈声さんの二人方のみ。妻はとても気に入っているようだが、おそれおおくて勿体ない、勿体ないとさかんに連呼する。で、僕は妻のことを「勿体ないばあさん」と呼ぶことにしている。
さて次に自分の法名はどうする。性格的にも慈音さんの慈はとても気恥ずかしくてつけられない。今は未だ模索中。でもそうそうに考えておかねば。本音を言えば勿論、院号などは全く不要。敬虔な仏教徒ではないため釈の文字すらもいらない。○○慈照。○○慈声それだけで充分だ。
慈音師の俗名は伊東幸吉、父の滅後四郎を襲名しそして寛大より慈音の名を頂く。
衛藤先生は俗名は衛藤欣、慈音師の許では欣情、そして寛大より慈声のおくり名を頂いた。
 僕は七年前、父親が亡くなったときにお墓を建てた。それは平凡な普通の白の御影石だが普通、南無阿弥陀仏と彫る処を厳戒の辞 チ。シュ。キュ。ジョ(ウ)。ギョ(ウ)。コウ。フク。センの一五文字を彫つてもらった。世界で唯一つのお墓だ。さぞかし寺のものもそれを見て、「何だ、これは」と首をかしげたことだろう。「変わったお方だ」と
住職だけじゃない。僕の兄弟も息子夫婦も、みなそれを見て「何これ」と溜息をついたにちがいない。誰も厳戒の辞のなんたるかをも知らない。でもやがていつか解る時がくる。この厳戒の辞の何たるかを知る時がきっと来るだろう。この福井県は特に昔から浄土真宗が盛んな所で、真宗に在らずんば、宗教にあらずと思ふ人が圧倒的に多い土地柄である。父は浄土真宗に帰依したというよりも、深く親鸞の教えに傾倒していた。若い時から歎異抄はいつもよく読んでいた。
 昔、学生時代敬慕していた文学者の亀井勝一郎のお墓を多摩霊園に行きひとりで拝んだ。すると居並ぶ、どでかい豪族のような墓が林立する中で、彼の墓は木の墓標一本だけがひっそりと立っていた。亀井勝一郎ここに眠るとだけ記してあった。先生らしいなと思った。「ああ、そうかこういうのを孤高、孤高の人と云うんだ」
さきほどネットで調べたら、今は黒の御影石で裏に「歳月は慈悲を生ず 亀井勝一郎」と書いてあつた。
 今の若い人は彼の名前すらおそらく知らないだろう。彼は戦時中、執筆中の「聖徳太子」の原稿をいつも鞄に入れ、防空壕へそれを持ち込んだと云う。まわりはすっかり焼け野原。出版社は焼け落ちて将来それが印刷される希望すらないというのに。彼は身命を賭してそれを護った。現代の作家でそれほど死を賭して迄の覚悟をもって執筆されている人はいるか。おそらくいるはずもない。先生はガンでお亡くなりになった。普通は壮絶な痛みを和らげる為にモルヒネを使うそうだが、先生は自分の死と対峙し、死そのものを凝視するために敢えてそれの使用を拒絶したそうだ。 
享年59歳(超勝院釈浄慧居士)先生のご冥福を心からお祈りしたい 。
 東京に行く機会があったら、是非とも伊東慈音先生と衛藤慈声先生、そして坂井哲子先生のお墓にもお参りしたいと思ふ。僕はまだ衛藤先生のお顔すら知らない。慈音先生の身内の方にもお会いして、写真をお借りしてこのブログにも載せたいと思ふ。慈音先生に私淑される以前はクリスチャンであったと聞く。きっと天界からご覧になって居られると思ふ。
当ブログにも掲載した「円海大師の出家」はこの慈声さんが著したものだ。時は赤穂浪士の討ち入りがあった元禄年間である。大師は土佐の国に生まれ幼少の砌、父を何者かに討たれ、当時の武家の掟にならい主君に願い出て仇討の旅に出られた。仇を求めて何年もの間諸国を経廻るうちに路銀を使い果たし、仏道を修行する者が宿とする樹下石上をねぐらとする生活が続いた。或る日釈迦の降誕祭の折、旅で出逢った一人の僧に、「貴公は誰か仇を探しているのではないかと喝破される。 たとえ仇を見つけ仇を討ったとしても、それで死者の妄執は晴れるか。あとは残されし者同士の仇討の連鎖が待つのみ」と懇篤に説諭されて仏門に入られた。おそらくは臨済宗だったろう。そこで数年間の修行をなされ、それに心休まることなく山岳信仰である修験道に進まれ、更には行者道へと歩まれた。円海大師の修行に関しては未知日記、光明論下巻、テッシン講録、三世と四世論そして因果論に詳細に語られている。齢百八十を越えて天の命を受け、チベットの山中で昇天されて、今はミキョウ貴尊として天界で働かれておられる。仙人としての諸々の修行(テツシン講録を参照)、そして天界の無言詞界での修行などを挿入し、多次元に渉る真実の物語を小説化、もしくは映像化したなら多くの耳目を集めることだろう。それと同時並行して伊東慈音さんの生涯をも絡み合わせ、天界で働かれる天使の方々の言葉をもドラマの中に挿入する。きっと今まで誰も見たこともないような稀有壮大な作品ができあがるだろうに。このドラマを見ることによって多くの人々の生き方をおそらく根底から変えてしまうに違いない。将来、有能な人が是等の実話を作品化されることを心から希求する。画材は既に揃っている。あとはどう料理するかはその人の腕次第だ。日本に残存する仙人の伝説は至って少ない。名を挙げるとすれば、役行者、(役の小角)だけが実在の人物としては出て来るだけだ。史書によれば小角(おづぬ)は大空を自由に飛翔したり、海の上を歩いたりしたそうだ。こだま会日誌はこのミキョウ貴尊が講述されたものだが、そこに仙人の日常生活が詳細に綴られている。日誌によれば、この地球にはなんと小一万の行者が人里離れた僻地に密かに隠れ住み、そこで今も荒行を行っている。そして釈迦キリストが行った奇蹟なるものを日常に行っていると書かれている。興味のあられる方は未知日記全巻をまずは読破してみることだ。

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