覚者慈音1591   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述


覚者慈音1591
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十六      神通力と人通力の関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・20


 神の道は広きが如く思はるれど歩みて通ぜざることなきが故に、万人其々の分野に応じて其に相当することを得らるることを知るによって、世人にすすむるものなりと知るべし。かの石猿は雲をよびて是にまたがりて空を駈り行く術をなせど、法師はかかる、術は知らざるなり。されど法師は神の自然を歩むによって、此術者を自由に使用し、且つ神より常に守られ居ることを、小説にて知らし居るにてはあらざるか。雲をよび風を起して
飛行なしたりとてそは何の益かあらん。是人通力と神通力の相違はここにあることをよくよく考慮せば、神通力が遠近の区別なきことも亦推して知ることを得ん。徒らに空しきことに心をいたましむることなかれ。又迷ひを深くすることを慎むべし。知り得て何等益なきことに光陰を空しくするは是愚の行ひに迷はさるると承知せよ。貴尊が前にも語られし如く、行者は空を飛びて通力を失ひ転落したれど、信者は同じ処にねむりて地球を一廻転なしたりとの教へはここにあるなり。今欣情と慈音は尺をへだて居れど、我と慈音はへだたりあるにあらず。欣情とも亦同様なり。然りとせば我は何処にありやを考へ見よ。我姿はあらざるによりて遠くへだたる如く思ふならん。されど我と彼とは尺の隔りもあらざるが故に、一体となり居るにてはあらざるかに思ひを致さば、神と世人との交はりは遠からずして一体なることを知るならん。是距離なきが故なり。神通力とはかくの如し。遠く思へど遠からず、近く思へど近からず。遠近なきが故に世人と神の力は一体なることに思ひを致さば、悪き行ひをなし居ては神にそむくとの理は悟ることを得るならん。

 我、欣情と慈音に到り居ることを、もし行者が二人の傍に来るとも行者の眼には映るものにあらず。もし行者が斯る姿にて現はれ居るなどと口にするならば、そは行者の幻影にすぎず。我、二人に対し姿もて現はし居るものにあらざる故なり。故に行者は如何に眼を皿にすともわが姿は見えざるなり。又見ゆるものを送り居るものにあらざるなり。唯通力を以て我等は送り居るものにて姿などもて送り居るものにあらざる事を認識せよ。もし我、空より大なる声を以て語るならば、世人は唯不思議と思ひて、神の現出の如く心得て頭を地にするならん。空より大なる声を発して何の益かある。かかる誤ちたることをなさずとも、法は他にあるが故なり。よく宗教者の語り居る教典に大空に声あり説き居るは、所謂耳の錯覚にて、かかることのあるべき理由なし。さりながらなさんと欲すればなし得らるるなり。又我等姿を現はさんとせば姿を現はすことも敢て至難にはあらざるなり。されどかかることは人通力に属するが故になさざる迄なり。なして世をさわがして何の益あらん。貴尊が慈音をして後方に退かしめ或は破損(こわれ)たる時計をもとに復さしめたる如き行ひをなしたるは、是慈音の迷ひをとかんとの心にてなしたるにて、悪戯事にてはあらざりしなり。かかることも神通力にあらずしてそは人通力なりしなり。世人は大概是等のことを神通力と思ひあやまりて、恰も奇蹟の如く考へ居れど、行ずるものの法を学びて修得したらば、訳もなきことにて敢ていぶかるには足らざるなり。

×

非ログインユーザーとして返信する