覚者慈音1589   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1589
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十六      神通力と人通力の関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・20


 さりながら人通力を得たりとて其にて修行の終りと見なさば、其は大なるあやまりなることは今更云ふ迄もなし。自然にそなはる人通力は、神の道を正しく修養したるものに於て、はじめて正しくそなはる。然して其そなはりたる通力を拡大強化せば自然に神通力は得らるる道理をよくよく考ふる必要あるなり。神の道を正しく歩みて自然にそなはりたる人通力を受けたる人の傍らに至らば、人通力のみ修行して如何なる不可思議なる行ひを見すとも、直ちに看破せられて其通力は失はるる結果となるなり。是をわかり易く説明するならば、ここに行者ありて如何なる魔法を以てすとも、神より自然に授けられたる人の前にては何等のしるしはあらざるなり。よしありとするも其は唯一種の手品にすぎずして、徹するものにあらざる故なり。行者は肉体を苦しめて種々様々の法力を行ふことを得とも、正しき修養ある人の目前にては何等の効果はあらずと知らば可なり。行者は己が法を以て正しき人を迷はしひき入れんとなすとも、神の自然を受けたる人には迷はす、術はなかるべし。行者の如く身を苦しめて種々様々の法力を用ゆる如き底の行ひは、万人悉く学びたりとて行はるるものにあらず。行者の法力は即ち川を泳ぎ渡るに等しければなり。かかることは学びて詮なきことなり。神より伝へられたる自然の徳は恰も完全なる橋を渡したるによつて、万人悉くが安堵して通ずることを得るなれば、我等世人に説かんとなし居ることを修すれば、即ち橋を渡るに等しと考へて、泳ぎする如き行者の法に迷はさるることなく、修行せば彼等は世人の前に低頭する他なかるべし。
 世人は西遊記と云ふ所説を読みたるならん。彼の中の主人公三蔵法師なる人は、唯信仰あるのみにて何等法力をつみたるにあらねど、悪魔は是を犯す事あたはざりしと説き居るならん。又種々様々の悪魔は、法力を以て彼の石猿と争ひ、然してその猿と同様のもの現はれて釈迦の目前にて看破せられ、一方は破れたることも世人は読みたるならん。魔法魔術は如何に巧みに行ふとも其は人通力なるによりて、神通力を受けたる者の傍に至らば、直ちに看破せられて消滅することを教へたるものならん。この理を知らば世人は徒らにかかることに耳をかさず、ひたすら神の自然に従ひて行じ居らば、軈てはその自然の力に同化されて遂には神通力を得るに至ることは火をみるよりも明らかなることを、我等知るによってなり。

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