覚者慈音1588   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1588
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十六      神通力と人通力の関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・19


 現在の宗教者は船をく宗教なるが故に、慾心を伴ひ、愛の力に欠くる事多きが故に、世を完全ならしむることを得ざるなれば、よくよく反省して今一段愛の力を広く高くして、橋を渡す宗教者たらんことを熱望するものなり。
 余事はとにかく人通力とはこの種の如きを云ふにて是等はすべて肉体に属す。故にすべては実行に移さざれば目的は達し難し。実行に移さんとせばその範囲は神通力の如く広きにわたりてなし得らるるものにあらざる事は、肉体に限度を有すると同様の関係あるによって、範囲は狭くなる事是又是非もなきなり。所謂人通力は表面にあらはるる現象にして、神通力は潜在なし居る無限の力なれば、神通力より得たる一部にすぎざる故なり。この意味を世人は理解することを得るや。よくよく考慮し見るべし。人通力にも道あり。神通力にも道なかるべからず。陸にも道ありて通じ、海にも道ありて通じ、空にも路ありて飛行す。神通力にありても、是又道なかるべからず。通力とは即ち道を進むるを云ふなり。道をあやまてば通力は得らるるものにあらず。されば道とは何かを考慮せざるべからず。眼にも、通力あり。耳鼻口又然り。所謂人体悉く通力ならざるはなし。かく語らば世人は不審するならん。されど肉体なくんば魂は宿らず。魂なくしては通力は得がたし。故に肉体悉くは通力の発する源にして、是に依って心のままに通力は得らるるなりと説明なすなり。
 行者は肉体に苦しみを与へて行をなし、其を法に従ひて、修するが故に望みは果さることも推して知る事を得るならん。是等の類はすべて人通力にして、所謂神通力より受けたる法なれば、その範囲はきはめて狭し。人通力を行じ終りて後にあらざれば、神通力の道は開らく事を得ざるものにて、所謂人の道を修めて後に神の道に入るは、行者の順序にして人通力全くそなはりて、然して神通力の門をくぐるに至る。即ち人通力は中学にして、神通力は大学の関係と見なさば可なり。普通の行者は人通力のみ修行してその大体を修むることを得ば、其を資本として愚人を欺き、己既に神となりたる如く思はしめて世間を迷はし、軈ては我身をも亡ぼすに至る如き徒輩少なからずあるなり。

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