覚者慈音1587   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1587
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十六      神通力と人通力の関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・19


 今迄語り来りたる言行について考ふる時、言の範囲はきはめて広く、行の範囲は限度を有するが故に、せましと見るも差支なからん。何となれば言はなし得ざる事柄をもなし得る如く語らるれど、行はなし難き事をなすことは不可能なるが故なり。されば言は確定にも通じ、又不確定にも通ず。是に反し行は確定にあらざれば成立するものにあらねば従って其範囲はせまし。されば言は空にして、行は実なる事に心附くならん。言ふべくして行ひ難きは言の余りに広くして、行の狭きが故なり。精神は広きにわたり自由を有す。是に反し行は肉体なるが故に、心の欲するがままに行動することは困難なるが故に、ここに言行一致せざる事の理も亦推して知ることを得るならん。所謂神通力とは言に属し、人通力とは行に属すと説明なさば、世人はその意味を諒解するならんと思ふなり。川を渡るに泳ぎをなし、或は船ををき或は橋を渡す等は、是人通力に属す。されど同じ川を渡すに於於ても、その人通力の力が泳ぎと船と橋との相違あることに心せざるべからず。人通力にはかくの如き相違あるなり。泳ぎて川を渡るは、其に相当する技術を要す。されど是は溺るる危険あらん。又船は多くの人を運ぶ力あれど誤まてば履る憂もあらん。橋を完全に渡すならば自由自在に通力を得せしめて、多くの人をあやまたしめず渡すことを得る通力とならんことに思ひをはせよ。泳ぎの術を知りて得たる人通力は、自己のみの通力にて、是を船にて渡すは其上のすぐれたる通力なるべし。更に是を強ぅして橋を渡す通力となさば、多くの人に通力を与ふる大なる力となる。この三つのものに対して聊か考へを深くせざるべからず。
 先づ泳ぎする人の通力は、技術を要するが故に練磨せざるべからず。されど是は肉体の方法なるが故、肉体に欠陥あらば中途にて溺るる事とならん。恰も行者が人通力を得て、空を飛行するに等し。あやまてば転落するは当然なるべし。自力の法はかくの如く誤ちを生ず。又自力の法には己他のなし得ざる事をなして、他を羨やましめんとするが如き心を伴ふにより、かかるあやまちを生ずる結果となるなり。船を置くは多くの人を渡さんとなす愛の心より生じたる現はれなるが故に、泳ぎする人とは格段の相違あるなり。されど船をあやつるは是又技術を要す。故に此愛には稍もすれば慾心を誘発する恐なきにしもあらず。又船は小さき愛なるが故に、あやまてば覆る如き愛と変じて是又危険を伴ふ。されど橋を完全に渡すならば、多くの人は危険を伴はずして無事に通ずることを得るなり。是即ち大愛の法なるが故に、その力は無限なることに心附かざるべからず。世人は橋を渡す程の修養修行して、大愛の人通力を得るにあらざれば、世を益することは難かるべし。

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