覚者慈音1586   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1586
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十五      言行一致せざるは何故か   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・19


  かの愚者と云はるる泰岳の如きを我等云はしむれば、彼は学者にあらねど、智慧者なりと云ふの他なしと云ふなり。彼は智慧によって世を救ひたる人なり。智慧の力は広大無辺にして限りなく、学の力は限度ありてあさし。世人は何れを尊しとするや。又何れを択ばんとするや。確定したる事を学ぶは易く、又学ばずとも既に成立したるものならば其以上進まざるべし。智慧は不確定を確定なさしむる力を有するが故に、進む道もきはめて広く又きはめて長し。我等は世人をしてこの高く長き道を歩ませんとして命ぜられたる任務を計り居るなり。故に我等の語る処は世人をして考へを深からしめんが為に、明瞭なる言葉を用いずして、徒らに婉曲的の教へをなし居るも、是深き意味ありて不確定語を用い居るにて、是を確定語にて直ちに解釈なさしむれば世人は考慮を廻らさずして、唯然あるかととのみ考へて、言葉をうのみにして其にて終りとならん事を怖れて、かかるまぎらはしき教へを故意となし居る事に留意して、一句の言葉に対しても見のがさず、聞きのがさず深く考慮しつつ読むべし。聴くべし。信とは言なり。念とは行なり。故に信念一致せずば、言行一致とはならざることに思ひをはせよ。信ぜざれば念は生ずるものにあらず。念ずるは即ち信あるによってなるべし。不確定を確定に迄進めんとするには信念を以て進まざれば得難し。例へば神を信ずるものは神を念ず。仏を信ずるものは仏を念ずるによって、智慧は深くなる事の理を考へ見ば、ここに一段の工夫する処あらんと思ふが如何 !
 信ずるが故に念ずるにてはあらざるか。信ぜざる事を念ずる人は先づなかるべし。信念を強くせばその徳は智慧となりて現はる。此智慧の現はるる程度の如何によって、その尺度の程度は異なる。例へば学者は一つの事を発見して、その事柄に対して斯くすれば斯くなるとの理を験して、然して其を信じたらば、其によって何ものかをつくらんと考慮工夫なすは、是信を得て念をこらすによって、その信念がいよいよ深くなるに従って遂に、大なるものを発見組織するに至る。 是即ち信念より得たる智慧の徳に化せられたる結果にてはあらざるか。すべては一なり。一法を修すれば万法に通ずるの理も是にて理解することを得るならん。仏を信じ念仏して往生するは疑ひなしとの教へもこの理に他ならず。神の道又然あるならん。神の力、仏の光明とは即ち智慧を指すならん。是言行一致の法則にして、言正しからざれば、行も亦正しからず。行も正しからざれば、言又是に順ず。故に言と行とは車の両輪の如くならざれば、成立するものにあらざることを深く考へて、日々の行事に対しても又人と人との交はりに於ても、すべて言行を一致にして接すれば誤ち少なるべし。 

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