覚者慈音1585   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1585
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十五      言行一致せざるは何故か   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・18


 例へば汝の宅に他人より電話がかかり来る時、受話器をとる迄の事を考へよと云ふなり。受話器をとりて汝の耳にあつれば既に先方の言葉が伝はる如しと同様の関係を指すなり。今汝は静座し居る時、汝の心に思ひもよらざる事の湧き出で来るは、何処よりか電話をかけ来りたると同様の関係ならん。然りせば其は何処よりかかり来る電話なりしか。此事に思ひを廻らさば世人は修養に対して何か一段の工夫は生ずべき筈なり。又其理を明らむる事によって迷ひも出で、信も得らるる道理とならん。電話は機械にして彼と是との通話は得らるれど、そは機械の具備あるによって不思議とは思はざるなり。されど無形のものより、無形の心に伝はり来る事に対しては世人は余りに意を用いざるべし。又深く追究して是が理を究めんともなし居らざる事を我等は知る。されど信仰を得んとするには此事柄に対して心を用いずば、正しき信仰は得られざるなり。所謂無言詞より伝はりて、その無言詞が汝等の心に備れる言葉に組織されて、はじめて有言詞となる故に、言葉を多く知る人には多くの言葉に組織され、言葉をすくなく知る人には其程度に応じて組織され来る理も考慮に入れざるべからず。種々様々の学問をして多くの学問をして多くの書を読みたる人には、其程度に応じて無言詞は有言詞にはたらくによって、言葉の範囲は広くなれど、見聞あさき人には其程度以外の事は唯言葉に発する事を得ざるにすぎず。故に言葉の数を知らざる人は、唯口を動かすのみ。是を現はさんとして肉体の行動によって形にて現はさんとはかる他なかるべし。見聞の広きとせまきとの相違は唯其のみにすぎず。見聞浅くとも信仰厚き人は、言葉なき言葉を形にて現はし是を知らしむることも不可能にあらず。世人の経験に於ても見らるるならん。他国に赴きて其国の言葉通ぜざれば肉体行動により、己が思ひを彼に通ぜしむるの他、術はなかるべし。其同様の関係にて見聞の広きとうすきとの相違と、智慧の濃厚の隔りを鑑別することは至難なるべし。学なくとも道をきはめ、学ありても道をきはめざるは、是何によってかを検討せば、学の有無と、智慧の濃厚は、学によってその尺度を計ることは至難なるべし。智慧あさきが故に学によってその智慧を高くせんとはかるも、是他より恵まるる法なるべし。されば学なくとも智慧は何処よりか自然にわき出で来る人もあらん。その湧き出づる智慧とは、誰より来るか、外より入り来るか、或は内より湧き出づるかの二つの事より考察せざるべからず。即ち智慧は外にあるか、はた内にあるかについて考ふるの他なかるべし。世人は確定したる事のみ取り入れて、確定せざる事を取り入れんとはなさざるが故に、智慧は湧き出でざるなり。故に新らしき発見をなすことを得ず。かかる事にては世は進歩発達するものにあらず。我等は世人に対して婉曲なる言葉もて世人を苦しめ居るは、是不確定より確定を得せしめんと計るによってなり。禅門の教へに「不思慮程を思慮せよ」と云ふも此理を指すならん。

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