覚者慈音1584   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

乾兌離震巽坎艮坤

覚者慈音1584
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十五      言行一致せざるは何故か   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・18


 兎に角乾とは種子なり。兌とはたがやし蒔く。然して離とは土と種子とか融和して伸る姿にて、震とは根を下し二葉を出したるを云ふなり。是にて前門は整いたるなり。次に巽とは根をはり、乾を伸すを云ふにて、坎とは地に養分を下し、又一方乾に養分を送るを云ふなり。艮とは枝をはり、花を咲かせし形を云ひ、坤とは実を結び、更に種子を宿せし姿を云ふなり。かくなりて又第二の乾にかへる。易とはかくの如きものにて、易を占ひなどに用いて彼是一時の迷ひを晴さんとするが如き、まじなひに用ゆるものにあらず。世の中のすべての事柄を明るく認識させんがために作られたるが故に、易と名附けられたり。易とは簡易なる明るき学問と云ふの意味にて、気休めの学問にあらざる事をここに語りをくものなり。
 近来日本に使はれ居る易者の筮竹使用は誤まてる計算法を用い居るが故に学理に反するを以てうとんぜられ居れど、筮竹算木(ぜいちく、さんぎ)は数学計算器と同様に取り扱ふべきものにて、此計算器によりて未知数を、既知数に変ぜしむる機械なりと知らば、正しき用法を知るにあらざれば恰も幼児に算盤を玩弄(もてあそば)すると同様となるなり。余事は別として先にかたりし言行の事に立ちかへりて語らん。
 言とは即ち数学の問題と見なさば、行とは是を解決して答へをなしたる如しとの意味を念頭にをきて工夫せざるべからず。問題を出されて是に解決の答へをなさざれば結果は得られざる如く、言行一致せざれば一方に偏りて永久にすべては判明せざるべし。問題あるは迷ひなり。是言のみにて行ひに欠けたるが故なり。又解のみならば其問題は何れなりしか知るよしもなからん。故に問題ありての答へ、答へは問題より生じたる結果なるにより、是を要約すれば問題は因にして、答へは果なる関係とならん。然りとすれば因ありての果なるにより、言行とは因果の関係も含まれ居ることに留意せざるべからず。因なくして果の結ぶものにあらざることは云ふ迄もなし。然らば言あるならば行ひは是に従はざるべからず。我かく語らば世人は不言実行とは如何なるを云ふかとの質問ならん。行ひは言にうつさざれど既に潜在なし居る何ものかが存するによって行ひにうつさるるならん。例へば是を作らんと思ふが故に言葉にもらさず、直ちに行ひにうつすを不言実行と云ふなれば、口に言葉に出さねどつくらんと思ふ心がすでに潜在して、表面に現はれざるのみにて、行ひは現はれてつくられたる時に他ならずと知るべし。その潜在意識なるものが働きを起す迄の物の何なるかを今一歩深く考へ見よ。何ものが汝の心にかく感ぜしめ来りたるやに思ひをはせよと云ふことなり。何ものかがありて心に感ぜしめ、然して心が其を受け入れての後にあらざれば、言葉とはならざるべし。所謂言葉迄の経路を考へよと云ふなり。言葉に化せられたるは既に形の整ひたる故なるべし。形整ひて其が表面に現はれ脳に伝はり更に肉体に及ぼす。是を深く考慮せよと云ふなり。

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