覚者慈音1583   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1583
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十五      言行一致せざるは何故か   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・18


 先に語りし易学の八卦なるものの言葉を八大門にうつして説明するならばチ、シュ、キュ、ジョウは乾兌離震の陽気に合ひ、ギョウ、コウ、フク、センは巽坎艮坤の陰気に合ふ。故に是は順逆なしつつ廻転なし居ると知るべし。順逆と云へる言葉を用いたれど、実は順に廻転なし居るにて逆廻転にはあらざるなり。ここに一言注意しをく。順逆と語りしは相対性言語に他ならずと知らば可なり。頭は乾天にして、腹は坤地の関係あるによって、腹に前門が下り、頭に後門が上る時は、逆の形に化せらるるによって、かかる言葉を用いたるなれば其心して聴くべし、時によりては前門は下方に下り、後門は上方に昇ることあれど、事実は順にして逆にはあらざるなり。されど是を聞く人稍もすれば、其意味を諒解するあたはずして唯順の廻りとのみにては解釈することあたはざらんと思ふが故に、順逆と名附けたればその心して聞くべし。故に或時は乾兌離震の四つは腹に来り、又或時は頭に帰る。是と同様に巽坎艮坤は頭に至り、又腹に帰する事と知らば易の意味も従って判明するならん。是を一言にて説明するならば八卦悉くは腹より頭へ、頭より腹へとめぐり、又頭より腹へ、腹より頭へめぐる関係も考へのうちに入れて工夫せざるべからず。ここに注意することあり。そは他ならず。世人は八卦と云はば唯文字の意味に囚はれて考へを小さく見る傾向あり。即ち乾兌離震、巽坎艮坤の八つを天沢火雷風水山地と称ふるが故に、八卦と云はば唯天沢火雷風水山地の八つとのみ思ひあやまりて、事実乾兌離震巽坎艮坤の文字の意味を曲解なすによって、ここに誤ちたる考へを起す結果となり居る故にここに注意なしをくものなり。乾とは因にして、坤とは果の関係を云ふなり。又乾は始めにて、坤は終りの関係となる。然し是は人類への道なり。乾はあながち天と云ふにあらず。坤も亦然あるなり。地と云ふにてはあらざることをここに教へをく。此事柄より易を考へ見ば、従って其判断法は従来世人が用い居る八卦とは大に、その趣きを異になし居る気附くならん。
 乾はものの始めとせば即ち破壊に属し、兌は分解、離は融和、震は組織の前門に合ひ、更に巽は又破壊、坎は分解、艮は融和、坤は組織の後門に合ふ。故に前門の四卦は言にして、後の四卦は即ち行に合ふと知りて、易の意味を解釈せば従って明らかとならん。
 今慈音が離ははなるると云ふ意味に解釈せば融和とはならざるべしと欣情に語りたり。かかる愚問をなすが故に易を体得するあたはざるは是非もなき事なり。所謂学の浅きを証明暴露したるに他ならず。離とははなるる意味にあらず。此一文字に対しても深き広き意味ありて卦の形より見る時は、二つの陽爻の中に、一個の陰爻がはさまりあるによって、離ははなるると解釈なし居れど、そは大なるあやまちなり。即ち二陽によって中間の一陰を育つる融和の姿を現はしたるによって、離と云ふ文字にて現はしたれど、此文字は情熱を盛にすとの意味ればその範囲はきはめて広し。故に日本の言葉にて云ひ現ひ現はせばもみ出づると云ふ意味なり。故に離と、もみ出づるとは同様の関係あるなり。春の花はもみ出でて開らく秋の葉はもみ出でて赤くなる。所謂もみ出づる花、もみ出づる葉なるべし。形の変化するは即ち離なり。青より赤に化せららるる即ち離なるべし。かかる事に言葉を弄し居りては尽る処なからん。よって省略す。されどすべてに対して其心して考へを広くすべし。

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