覚者慈音1581   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1581
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十五      言行一致せざるは何故か   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・17


 前門は空にして後門は実なりと語りたれば、世人は八大門に対して観察は前門の空はおぼろげに解釈なすことを得るならん。後門の四つは実なるによって形あるものの如く考ふるが故に聊か迷ひを深くするならん。汝等の世界より見るが故にかかる誤解を生ずる事は我等よく知る。前門も後門も共に皆汝等の世界より観察する時是をすべて空として考ふべし。又前門も空なり。後門も空なり。その空中に空実の二種含まれあることを考慮に入れて聞かざれば我の説は誤解を招くこと多し。依って空の中にも空実二種ありとして此説を聞くべし。
 是等の学説は光明論に於て教主が親しく語られし処なれば、我は此学説を更に世人の肉体に及ぼして語らんと思ふなり。されど我は宗教者にあらねば肉体にうつしたりとて其によって世俗の世渡りを彼是云々するものにあらず。要は来世へ進み行く方向を示めす磁石の如しと考へて我説を聞きもし、又其によって方向をあやまたず進まんことを望むものなり。さて(チ)の無始終霊子によって組織せられたる前門は、世人の眼にうつりたる如くあらき線がひかれある如く見えしならん。(光明論参照)そは霊子の力とはたらきを示めしたるものにて世人の眼にうつりし事柄は、霊子の威徳を現はしたるにすぎざれば、その心して是を見聞するにあらざれば誤解して悟ることは至難なるべし。もとより霊子は眼に見えず耳にも聞えず、すべてに感ずる事なき底のものなるに不拘、その力の威力のすぐれたるが故に見んと欲せば光となり、聞かんと欲せば音となる。故に普通一般のひとにては是を見聞することは難きが故に、或程度行力のつみたるものにあらざれば、是が見聞を許し給はざるなり。今世人が是が見聞を許されたりとせば世人は非常に進歩発達なし居ると知らば可ならん。先づ是を人身にとりて説明せんに前門の言に合ふ法則は、夫婦和合して受胎せしめ、母胎にありて是を育てたると同様と知らば月満ちて生れ出でしは、後門のギョウに合ふことも知らるるならん。所謂チ、シュ、キユ、ジョゥの順序にて、母胎にて組織されしは未だその何なるかも計り知れざるが故に、言の部に属す。然して分娩して人の姿となりて現はれしは、ギ、コウ、フク、センの部に属すが故に、是はギョウの部に属せど未だ人としてのはたらきをなすことを得ざるが故に、この言行は唯空の中に包含せられたる空実の姿と見なして可ならん。即ち前門チは破壊にして、シュは分解、キュは融和、ジョウは組織なることは世人も既に知る処、されどこの四つの法則は未だ無形の中の無形なるが故に、世人には是等に関して正しき認識はなす事あたはざるべし。何となればチに相当する無始終霊子は、始めなく終りなきが故に、破壊の意味は世人には解するあたはざらんと思ふなり。依って先づこの事より聊か説明なさんとす。是は一大事の原則なれば注意して深く考へを廻らすと共に、我説をよくよく咀嚼してその真相をきはめんことを望む。世人は破壊と云へば砕き破ると考へ居るならんと、我れ等は思ふなり。我の称ふる破壊の意味は斯る狭き事にあらず。組織するも破壊なり。破壊も亦組織なりとの理を、先づ念頭にをくこと必要なり。
 大凡物事をなさんとの考へを起したりとせんか。其計画は破壊より組織へ向ふが故に、組織せんと思ふ心は、既に破壊を意味し、その組織は破壊より成立したるものなれば、是又破壊より成立たる結果なるが故に、破壊と組織は一体となる道理を考究せざるべからず。

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