覚者慈音1578   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1578
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十五      言行一致せざるは何故か   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・16


 言ふべくして行ひ難き事は世人の世界に多し。理なりと知りて行ひ難きことのあまたある事は我等よく知る。神に奉仕て神より命ぜられたる事を行はず、他に心をうつし居る人は尠なからず。神はなし難きことをなせよと命じ給ふものにあらず。然るに智慧なきものは是を難かしき事と考へてなすことをせず、遂に神をはなれて勝手気儘の行動をなすが故になることもならず、なすこともなさずして終る人は多し。
 世人は有識と智慧を混同なすによって見聞を広くなしたる人を智慧者と思ふが故に、智識者の言葉を智慧者の言葉の如く誤解なし居ることも我等はよく知る処、智慧とは湧き出づる泉の如く有識とは外部より注ぎこむ水の如しと考ふればこの区別は判明するならん。されば智慧は如何にくみ上ぐるとも絶ゆるものにあらず。識は桶に満たされたる水の如くなるによって汲めば絶ゆることあるなり。世人は是を考へざるが故に修養とは外部より侵入するものとのみ考ふるが故に言行は一致せざるなり。言ふべくして行ひ難きは即ち桶の水を捨てたるに等しければなり。今ききたる事を直ちに棄てなば桶は空虚となる如く、聞きて然あるかとのみ考へて唯其水をその言葉をすてなば其にて行ひとはならざる故なり。されど智慧は泉の如くなる関係上如何に汲みてすつるとも、後より後より湧き来るが故に、常に清らかなる水を蓄へ居るによって実行にうつさば、益々其力はまさり行くと同様の関係となるなり。世人の修養修行は井戸をほらずして桶の中に水を取り入るると同様の姿なるによって、水は溢れて外にこぼれて流れ居るに等し。我等が世人に示めし居る説は、井戸を深くほり下げて清らかなる水を湧き出でしめんとの教へをなし居ると考へて、清らかなる水の湧き出づる迄井戸を掘れよと勧むるものなり。斯くすることによって言行は一致なすことを工夫し見よとすすむるものなり。所謂井戸を掘るには良き水を得んとての希望にて土を深く掘り下ぐるならん。土を掘り下ぐるは行ひにして水を求めんとの希望は即ち言葉に相当すると思ふ時行ひを先にせざれば希望は達し難からん。

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