覚者慈音1577   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1577
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十四      根本愛と愛の種類   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・15


 前にも語りし愚者の泰岳が食物を摂取(とる)にあたり普通人の半食にて己の養ひを其以上摂取し居ることに思ひを廻らし見よ。泰岳の行ひはすべて愛によって鍛えあげたるが故にすべては愛なり。彼は愛の結晶人物とも見らるべき人にて幼児より天界に至る迄のその悉くが愛によってすべてを行ひ、行じたる所謂習慣性愛の行者なりと云ふも、過言にあらざる底の人なりしなり。人を助けんとなす愛は一方的なり。斯く語らば矛盾なしたる如く思ふならん。所謂助けんとする心は愛なり。されど我より彼へと考ふれば、その愛は二重の愛となり、然して己と云ふものの自我心は是に加はるに依て二心の愛となる。故にこの愛は重なりあひて力は重くなるによって、一方に傾くと知らば敢て矛盾なしたりとは云ひ難し。愛を利用して己を益せんとする如き愛は、もとより一方的愛にして、此愛が却てにくしみと変ずることもあるが故に心せざるべからず。
  泰岳の如く愛の充ち満ちたる人なるが故に病者の枕辺至らば病者は治癒し、猛獣のもとに到れば猛獣も害をなさず、頭をたれて彼になづくは是愛の充ち充ちたるものにて、兎やせん角やせんとの考へなど脳中にあらざる大愛の威徳にて、凡てのものが感化せられて是に順ず。慾心の愛は憎心の愛を伴ふ。憎心を伴ふ愛は正しき清き愛にあらず。汚れを帯びたる愛なるが故に、行ずるもの是等の道理をよくよく 翫味して、是を根本に迄逆上って神の慈悲に変へしなば、是は正しき慈愛となるによって、泰岳の如く化せられるは道理なるべし。さりかがらかかることは云ふべくして行ひは難きは、何故かを考慮せざるべからず。
 貴尊方及び我等が今日迄説き来りたる事柄は事実世人の身上にうつして道理とは思へど実行は伴ひがたからん。然りとせば是等は言行一致せざる空論となり居ることを我等はよく知る。されど修養修行するもの極致に至らばかくなる事は、因果の法則なるによって是を参考資料となし、是によって道を歩まば、其人々の智慧の程度に応じて進む事を得べく、又智慧の程度が進むに従ひ此書によって修養修行なし居らば、一歩々々必らずや或程度迄、進化する事は我等保証なすものなり。愛の力を強ぅして慈愛の心に迄進みなば、即ち人格は全く完成せらるる事も是又保証す。愛を根本に逆上らしむれば即ち無始終霊子より組織されたるものなるによって、是を発育せしればその赴く処は、是又無限なるによってなりと知らば可ならん。

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