覚者慈音1576   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1576
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十四      根本愛と愛の種類   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・15


 故に修養修行せんとなす人は愛の力を各方面に広げて、個人本位の愛を捨てんことを工夫せば、従って愛の力は拡大強化せられて広く高く拡がり行きて、神の心に同化するに至らんこと火をみるよりも明らかなりと断言す。酒を愛し茶を愛するも是を適度の愛に変へなば己が身の養ひとならん。量をすぐすは愛を深くするによって却て執着となる。そのものに対しそのものの程度に従って愛せば、相互の円満なることも是当然なるべし。棄執着の法と云ふは敢てむづかしきことにあらず。度を越えざる愛の力にてそのものに対して、そのものの量をはかりて是に接すれば執着は起らざるものなり。執着するは程度を越ゆる故なり。又その物の分度を量らざるが故に毒となり、或は害となることを考慮に入れて愛する力を用いなば、すべてはその愛に浴して薬ともならん。
 帝に懇望されて梅樹を捧げたる賤が女の枝に結びし和歌と云ふを我は聞きたり。伝説か事実かは知らねどその句に曰く「勅(みことのり)なればいともかしこし鶯の宿はときかば如何に答へん」とあり。世人はこの愛に対して如何に考ふるや。是等の愛に対して或は云ふならん。梅樹を愛するが故に否梅樹に執着するが故に鶯にことよせて訴へしならんと。又或人は云ふ、鶯の来りなば定めて嘆くならんととは思はざるや。


註 googleより
出典拾遺集 雑下・よみ人知らず・大鏡道長下・紀内侍(きのないし)


[訳] 紅梅を献上するようにという帝(みかど)のご命令ですから、お断り申し上げるのは非常におそれ多いことですが、もしこの紅梅に巣を作った鶯(うぐいす)が帰ってきて、私の家はどこへ行ったのかと尋ねたら、どのように答えたらよいのでしょう。


詞書(ことばがき)に、宮中からの命令で、人の家にあった紅梅を献上させようとしたところ、その木に鶯が巣を作っていたので、その家の女主人が詠んだ歌とある。「勅なれば」は口語的な表現で歌言葉ではないが、この歌の場合については優れた表現になっていると西行が賞賛している。


この賤の女は兎に角として、愛の意味を是に依ても頷き覚る処はあらざるか。帝の愛は梅樹に止まり、賤が女の愛は鶯の両者にわたりて其愛の力は帝よりも広し。然して尚その他に何かかくれたる一種の愛の力の潜在なし居ることに思ひを深くし見よ。然して帝と賤の女の何れが愛の力すぐれ居ることを考ふる時、そこに筆舌の及ばざる何ものかを感ずるにてはあらざるか。もとより此話は実は恋歌にして帝が賤の女に恋慕なしたるを、梅樹に事よせて返歌なしたるものならん。何れにもせよ、此中に含まれある愛の力が大なるはたらきをなし居ることに気附くならば、愛と云ふものに対しての考へは又別個の中より、一種の何物かを発見する手引きともならん。

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