覚者慈音1575   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1575
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十四      根本愛と愛の種類   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・15


 物と物との融合するは縁なり。縁に依ってつながれ、縁によって組織せらるるとのみにては、充分に凡ての事柄を認識したりとは云ひ難からん。宇宙全土は融合なし居るが故に其融合したるものが、更に融合し然して種々様々の物の組織せられ居るとせば、縁なきものは一としてあらざるならん。然らばその縁を更に逆上って縁とは何かとの疑ひを起して、更に更に追究する様あらん。斯くせざざればすべての原理は明らかとはならざるべし。是を一言にて我等に言はしむれば縁を作るは即ち愛なり。故に愛は縁の源なりと云ふも敢て過言にはあらざるべし。此事柄より考ふれば、愛は縁をつくり、縁は交はりをつくり、然して交はりよりすべては生み出ださるると見なさば、すべての根原は愛なりとの結論に達するならん。神は愛なりとの言葉も亦頷き知ることを得るならん。愛の種類はきはめて多し。是を一々説明することは筆紙の限度に於て許されざる処なれば其大要を語るに止むべし。
 縁にも善あり、又悪あり。愛は是に伴ふ。先にも語りし如く悪人にも愛ありと説きたるは此理なり。己が身を愛するが故に悪を行ふの余儀なきに至る。盗人が徒党をつくるも愛より出でて縁となり、其が結ばれて徒党となる。彼等は己の行ひの悪なることを知るが故に、光明をさけて暗中にひそむ。然らば彼等は何故に暗を好むや。暗は悪人の安息所なりと思ふが故に即ち暗を愛するなり。暗を愛するものに善はあらざる道理も従って頷くことを得るならん。彼等は暗夜に光明を見ば又暗を追ふて逃ぐるならん。彼等は光明を愛せずして是に遠ざかる。即ち一方的の愛なるが故なり。善者に於ても亦同じ道理あらん。善者は暗を厭ひ光明を悦ぶ。所謂暗を嫌ひ光明を愛するが故に是も亦一方的愛となるなり。先にも述べたる如く宇宙全土は愛より現はると考ふる時、暗を厭ふ善人も光明を厭ふ悪人も皆一方的なれど、是を統括して神に返へせば、神はこの両者を結ぶ縁を持ち居るが故に、何れにも愛の思ひを以て是等を遇することをなし給ふと云ふ理も、自づと理解することを得ば、ここに何か一段の工夫なかるべからず。善者も神の愛を有し、悪人も神の愛を有す。されど一方は暗きに枝をのばし、一方は光明に枝をのばすに他ならず。暗中にのびたる枝は栄ゆるものにあらず。光明にのびたる枝は益々繁茂す。故に神はすべてを罰するにあらずして、己の罪は己よって或は育ち、或は滅ぶの結果となることも又悟ることを得るならん。所謂我刀にて我首を切ると同様の結果となることも是神の行ひにあらず。神の処罰にはあらざることも推して知ることを得ん。故に己が身を愛するならば栄える方向に向ふか、或は亡びの方向に向ふかは世人の心まかせなり。何れを択ぶとも自由なることも推して知ることを得ん。悪き行ひをせば神は怒りてこれを罰すと説き居る宗教者は多し。されど我等に言はしむれば神は決して善悪の行ひに対して是に賞罰を与るものにあらず。賞罰は神の作りし自然をあやまちたる者と、あやまたざる者との区別によって行はるるものにて神の本心は即ち愛なるが故に、何れにも組せず唯何れをも愛し給ふと悟らば、神の力の愛は広大無辺なることに意を用ひて栄ゆる方向に枝をさしのべ幹を太くするに不如と我等は思ふが世人は如何に。

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