覚者慈音1574   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1574
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十四      根本愛と愛の種類   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・14


 例へば碁将棋を愛する人はその器物を愛するにあらずして碁将棋の組織を知りて第一の愛となし、次に器物に及び居るならん。碁将棋の愛は唯娯しみとのみ思ひてかかる事には愛と云ふ意味の含まれ居るものにあらずと考へなばそは大なる誤解なり。唯娯しむとか又は執着とかの程度迄は世人にも解釈せらるるならんも、実は愛なりと云ふ点に迄及びては、是を追求して考へ居る人は稀なりと思ふなり。我に云はしむれば碁将棋も愛の現はれによって娯しみともなり、又苦しみともなり、又苦しみともなり、又執着とも変じ行く事に思ひを深くして工夫し見るべし。然る時は愛と云ふものの如何なるものかをきはむる事を得ん。愛の種類には区別ありと思ふなり。己の心より出でて又己の心に帰る。此愛を反射愛或はこだま愛と仮称して説明なさん。一つの器物を愛して是に手入を施すは是己が心より愛するが故に、手をさしのべて或はきよめ或は磨く等の愛を送る。然して手入れせられたるものは清くなりて光彩を放つ。是心なきものの感謝より己が心に尚一層の愛を深からしむるに至るは、即ち心なきものと云へども愛の力は通ずとの意味より他のものに対する愛の力の如何に重きかを考慮すべし。心なき器物すら光を放ちて恩に報ゆ。即ち己が心の愛が彼の器物に至り其が反射して我の心を娯しまするに至るは相互愛の融合が、愛を一層深くするに至ると考へなば、己に出でて己にかへる反射愛、こだま愛の力は又如何に深きかを悟らざるべからず。心なきものに於てすらかくの如し。まして魂あるものに愛を送りて通ぜざる道理あらんや。愛の程度が深くなり行かば或場合是に囚はれて溺るる事多し。碁将棋に溺れ和歌俳句に溺るるもみな愛の力が一方に偏して好きとなり、恋となりて其が迷ひを引き起す結果俗に言ふ道楽となるなり。斯くならば愛は一方的となりて其愛が変じて娯しみ愛となり、楽しみ愛が自己愛にかへる結果却て苦みを招くに至る。所謂肥料を施しすぎて作物を枯死せしむる愛に変ずるが故なり。所謂寒からぬ程に見てをけ峯の雪と云ふ句に等し。程度を越さば迷ひとなり。程度に達せずば愛はうすし。其のものの程度に従ひて愛するにあらざれば完全に通ずるものにあらず。心なき器物の愛は程度を有するが故なり。所謂良薬変じて毒薬になると知らば可ならん。人類同志の愛に於て互に思いが相通じて親しむは是愛の熟し来りたる結果なることは世人も知る処ならん。わけて異性愛所謂男女の恋愛は親しみの度加はりて軈ては肉体融合の愛に迄及ぶ。此理は唯一般の習慣性より世人は普通の如く考へ居れど、是等の事柄を根原に逆上ってかかる事に至らしむるは何故かとの意味を、深く考慮して研究なし居る人は稀なるべし。男女肉体関係は子孫を多からしめんとの事柄より、斯くなり来るものにて是自然の法則が斯くせしめたりとのみ考へて、其以上深く追究して其根本義をたしかめんとはなし居らざる事を我等は遺憾とす。

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