覚者慈音1572   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1572
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十四      根本愛と愛の種類   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・12


 大凡全宇宙或は宇宙のすべては測り知れざる何ものかの力にて現出なしたりとせば、是を構成したる何ものかの力がありたるによって今日に至りたるならん。是を自然現象と一言詞するは余りに智慧なしと我は思ふなり。学理的より考察して如何に推理なすとも、総てに生命を与へし原理は明らかに説明することは難かるべし。すべてが組織構成せられ居る以上是等には悉く生命を有するが故ならん。その生命の根原は何によって作られしかと云ふに至っては明確なる回答をなすものあらんや。もしありとするもそは神の力なりと云ふの他なかるべし。然りとせば神はすべてを造りたる造物主に相当するならん。是等悉くを造りたる神ありとせば、造り主なる神は造りたるものの悉くを愛育せんとはかり居るは是又道理なるべし。例へば世人は一本の樹木を地に下し、是を育つるにも心して朝夕愛撫なし居るならん。神も全宇宙を造りたりとせば日々寸時も油断なく愛撫なし居るならんとの思ひは、神人共に同じからんと我等は思ふが如何 !
 されば根本愛とは即ち神のすべてに対する愛なる事は察せらるべし。故に神の愛と人の愛とは其範囲に於て相違あれど、愛と云ふに至っては大同小異なるべきことも亦察する事を得るならん。神は一切悉くを愛するにひきかへ、人類の愛は部分的愛となるは、これ責任上範囲の広きと云ふ意味に於ては相違なかるべし。故に神の愛は根にして人類愛は枝葉にすぎず。人類同志が身内と他人との区別によって、愛の力を異にするは、是責任愛の致す処、依って範囲は狭くなるなり。他人に対すると身内に対するとの相違は、己がつくりたる樹木との如く、己つくりたるものにあらねば責任は感ぜざれど、わがつくりたる樹木には責任を感ず。故に責任とは即ち愛より生ずる現はれならん。愛あるが故に責を感じ、責を感ずるが故に、是に手をさしのぶるならん。神は一切衆生をつくり其一切衆生に対して、愛するが故に責を担ひて、すべてを全からしめんとはかり給ふことを感じなば、人と神との責任も従って相違あることに心附かざるべからず。  

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