覚者慈音1571   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1571
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第五十三      身心の信仰と縁の関係 その二   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・11


 例へば水に溺れんとするものを助けんとして、己水泳の術を知らず水に飛び入りて彼を救はんとせば、両者共に溺るる他なからん。ここに瞬間の工夫をこらして彼を救ふべき正しき法を考へて救ひやらば、自他共に安全なるべし。無分別は即ち肉体信仰より生ず。正しき分別は精神信仰の現はれなりと知らば可なり。肉体信仰と精神信仰とは異なるものにあらねど、是を一体化せしむるには困難を伴ふこと多し。所謂肉体を有する世人は、神の法則と、人類の法則との区別あるによって、ここに両道が相伴はざる点多きため、ややもすれば何れにくみせば可ならんかと迷ふの余り、遂にあやまちを引きおこすこと多し。神の法則は大にして人類の法則は小さしと考ふるにより、すべてを神の法則にまかせなば可ならんかと思ひて、却て人類の約束を守らず、ために肉体に傷くことしばしばあるなり。
俗言に云ふ彼方たつれば此方がたたずの譬喩にて、両道一体化してたてんとすれば己の智慧足らずして、却て我身を傷くる結果となる。人類の約束は神の法則より出でたること多けれど、人と人とが身勝手の考へより神に反する法則を用ゆること多きため、不自然となるに依てこれを守らずば世間よりはうとんぜらるることを恐れて其にくみせば神の法則にそむく。とかく世人の世の中は斯くの如きこと少なからずあるなり。我彼に対して斯くせざれば世間の手前悪しとて不合理とは知りながら彼に接すること多からん。
 例へば彼の宅に祝事あり。我よりも何か祝ひの品を送らざれば義理を欠くなどのことは、是を神の法則より考ふればあやまちなり。然れども世間一般のならはしならば余儀なく是に順ずるの他なからん。もし斯ることをなさざれば他より指さし嗤はるるが故に、己に財宝なければ他より金品をかり入れても目的を達せんとなし、後にて其がために苦みを多くする例少なからざるべし。小さき事柄に対しても斯るためしは多し。斯る事は結局は相互間の友情が却て後に於て傷く結果となること多し。
 神の慈悲と人間の愛とにはかくの如き相違あるなり。さりながら其等の事柄は人類間の約束なるが故に、国を異にすれば人心も従って異なり、すべては一様ならざるべし。俗言に郷に入っては郷に従へと云ふあり。皆其等は国々の習慣風習なるが故に、是を容易に改革することを得ざるなり。神の法則は宇宙全般に通じて一なるが故に決して変ることなし。郷に入っては郷に従ふ。是人類間の約束なれば守らずば法にそむく。其を守らんとせばそこに又悩みを誘発す。神の法則より云へば人と人との交はりに於て相互の約束は確実に守らざると教へあるなり。守らんとせば肉体に労苦を伴ふ。されば是を如何なる方より巧みに処理し行くことを得るやと云ふ点について考慮せざるべからず。己に大なる愛あらばその愛の力もて、己が分野に相当する愛の力をはたらせて他に接すれば他をも満足せしむる事を得るにて、所謂真実の愛にあらざる唯表面の義理人情にて他に接するが故に、斯る悩みは生ずるなり。大愛の心もて他に接すれば、約束をかたく守ることも己が分に従ひてはたさるるにより、その愛の力は表面の義理人情の比にあらざるが故に、他を充分に満足せしむることを得るなり。故に肉体信仰とは唯真心より湧き出づる愛の力をひき出すことに依て望みは達せらるると知らば、義理人情とか世間並の交際とか云へる軽佻浮薄なる考へをすてて唯愛、大なる心を育つるこそ、即ち肉体信仰と精神信仰を一体化せしむる秘法なりとも云ひ得らるると知りて、唯すべてを愛する心にてその心を育つることこそ、是身心一体の修行と知らば可なり。

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