覚者慈音1570   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1570
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第五十三      身心の信仰と縁の関係 その二   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・11


 酒を好む人にして病中是を口にせざるも好めるものより病苦のなやみは大き故なり。されど病苦去らば忽ちもとに復す如きはこれ肉体信仰に乏しき人なるによってなり。是等も縁の部類に属す。例へば現今の慈音の如く眼は見えず、耳は遠くなり、手足の自由は失はれ、足腰ただず、すべては意の如くならざる姿におかれある時、ここに彼に巨万の財宝を与へ見よ。然る時は彼はその財宝を以て医者よ薬よ看護婦よと、己が意の慾するがままに行動をなし、衆人に対して欺きの言葉のみ用いて世の人の同情を一身に集めんとするが如き状態を現はすならん。然るにその財宝なきがために、彼の信仰は深くなりて神に帰依するにてはあらざるか。彼にして世間に対し一言の同情を得る如き言葉を口にせざるも、是身心一体の信仰をなし居るにて、又財産のうすきは彼に幸福を与へたるにてはあらざるか。歎きして怨みしとて病むものは病み、倒るるものは倒る。是自然にして、他の道上り己が苦痛のいささかにても安からんと欲するが如き行ひは、これ肉体信仰の至らざる者の口にするところ、是等の事柄をよくよく考慮して身心一如の信仰に歩みを進めずば、正しき自然を把握することも難く、自然の縁を結ぶことも至難とならん。悪きものを好みて、是を排除することあたはざるもみな肉体信仰の至らざる欠陥なりと知らば、反省して修養の道をあやまたざるやぅ工夫せざるべからず。是を是正するには原因に逆上って考へを廻らし結果を知るに至らば、是等は忽ち排除することを得るなり。唯中途因果の考へ、或は中途因縁の考へを持続するならば、其は明らめ難きは当然なるに思ひをはせよ。然して正しき明らめをなすべし。我物と考へ居ることは原因より結果に及ぼして考慮せば、我物と思ふものは一としてあらざる故なり。されば人と人との交はりに於ても他人の為に、我は同情してその人を救はんとはかる時、先づ結果を考へてその結果の如何をたしかめてのち彼に救ひの手をさしのぶべし。一時の気まぐれにて救ひをなさんとせば、却てその救ひの手が彼を悩ましむる結果となるによってなり。瞬間の救ひは瞬間にて消滅すると見なさば直ちに救ひやるべし。さりながら今救ひやるともその後ながく彼を救ふことあたはずと知らば、己の力とよくよく対照して工夫しての後、斯くせば永久彼は救はれんとの方面に向ひて、救ひの手をさしのぶることに考慮せよ。唯訳もなく彼を憐むの余り、無分別に救ひの手をさしのぶることは慎まざるべからず。我力にて及ばぬと知らば、力ある人にたのみて然して彼を救ひやるべし。是真の慈悲なり。正しきなさけの現はれと知るべし。

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