覚者慈音1568   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1568
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第五十二      身心の信仰と縁の関係 その一   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・11


 神ならぬ身の知るよしもなしと語り居ることを、我等はよく耳にす。全宇宙の大自然を正しく認識なし居る指導者ならば斯ることを口にするものにあらず。我等この事に対しては断言して憚らざるものなり。全宇宙の大自然を認識したる指導者にして、神ならぬ身の知るよしもなしなど決して口にするものにあらざるが故なり。世人は何事に対しても神を主眼として、すべてを神に結びつけて考慮を廻らすが故に、却て神を怨む如き迷ひを生ずるなり。神は万物を造りてその悉くをその分野に従はしめてはたらきをなさしめ居るによって、自然の範囲はきはめて広し。人類は人類にのみこれをとり入れてすべての事柄を人間本位に結びつけて考ふる如きはこれ自然を無視したる者なり。所謂汝等人類同志に於ても自己本位に囚はれて物事を観察すると同様にて、自己本位或は人類本位にてすべてを考ふれば、即ち自己にのみ囚はれ、或は人類のみに囚はれて、迷ひを深くするはこれ当然の理なるべし。精神本位に囚はるれば、肉体は虚となり。肉体本位に囚はるれば、精神は虚となる事に思ひを廻らして、一切悉くがすべて神の定め給ひし特徴を考慮に入るる修養修行ならでは、正しき身心一如の信仰とはならざる道理をわきまへて、よくよく工夫せざるべからず。



覚者慈音1569
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第五十三      身心の信仰と縁の関係 その二   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・11



 我等世人の修養修行し居る様を見るに言行一致せざることをなし居るを常に見る。言行一致せざる信仰は一方的信仰にして、何れかに欠陥を生ずるは理なるべし。然るに世人は口に称ふることと行ひの上になす事との相違あるは、これ一方に欠陥あるによってなり。所謂言とは精神的にして行とは即ち肉体的なるべし。云ふことは易く行ふことは難しと云ふ教への言葉あり。又不言実行と云ふ言葉もあるなり。何れを是とし何れを否とするやは云葉ずもがな知るところならん。不言実行の人は是を一見すれば、唯肉体にのみ囚はれ居る如く見ゆれど、実は精神と肉体とが一致なし居る姿を云ふなり。云ふことのみ口にして行ひに移さぬは、これ肉体に欠陥あるによってなり。又云ふことは難く行ふことは易しと云ふ言葉もあらん。斯くの如きは肉体信仰に囚はれて、精神に欠くる処ある現象より来ること多し。
 例へば己が好む行ひは不善なりと知りながら是を是正することあたはず。その意味を糺せば言葉にては云ひ現はし難からん。是は悪きことなれど如何にしても抑制することあたはず。其は何故かとたださるれば言葉にては答ふることあたはざるならん。是等は云ふことは難く行ふことは易しの部類に属するならん。悪きと知りなば抑制するは理なるに不拘、如何にしても止むることあたはざるは何処に欠陥ありやとの考へを深くし見よ。是等は所謂肉体信仰の至らざる故なり。悪きとは思へど知らず知らず行ひ居るは、即ち肉体信仰の欠陥にて、もし法人にして正しき肉体信仰の伴ふものあらば。速かに是正することの至難にはあらざるべし。病ひて病苦しければ医師の言葉に従ひて己が好むものすら口にせざるべし。病と好めるものと何れが苦きかを知るによってなり。

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