覚者慈音1567   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1567
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第五十二      身心の信仰と縁の関係 その一   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・11


 我等は宗教者にあらねば是等に対して言々句々を多くする必要はなけれど、宗教者としてその任にあたるもの是等に関して深く悟らずば、宗教者としての使命ははたされざるべし。又信仰するものは指導者を択びて是に従ふにあらねば、永久正しき信仰は得られざるべし。近来の宗教者は富豪家と見れば媚を以てこれに接し、私腹を肥さんが為の方便法を用いて富者をまつりあげ、却て世を害するものの多きは遺憾なり。余事は別として肉体信仰と精神信仰とは、如何にして是を結合融和せしむるかと云ふに、魂魄と肉体をつなぐ所謂糊に相当するものは何かと思惟し見よ。魂魄と肉体をつなぐ糊は即ち心意なるべし。是即ち魂魄と肉体とを接触せしむる縁なり。是を具体的に語るならば肉体を地球と見なし、心意を空間に輝く光、然して魂魄は日月と見なして考へなば、明らかに知る知ることを得るならん。魂魄に相当する日月の光明は、即ち心意にして是を地球に相当する肉体を照らすと見て考へ見よ。肉体の昼夜は心意に依て定まり、心意の受くる光は、即ち魂魄より来ると思はば、自づと察することを得るならん。日々雨天続きて日月の光輝かずば陰鬱なる日は持続するならん。雲とは即ち肉体と精神とを分離なし居る姿と見て考慮し見よ。昼夜は唯心意によってのみ廻転なし、日月は空高く輝くのみにて正しき光明は地に徹せぬが故に、心意は唯鬱陶しくなりていらだち或は腹立ち或は悲しむ等々の障碍を受くるがため、地上の作物は完全に発育せぬと同様に、肉体に於ても病苦は伴ふに至るならん。身心一如の生活をなすに至らば雲に相当するものは消え失せて、日々の生活は晴々としたる営みをなすに至らんこと、この事は明らかに知ることを得るならん。日月と肉体を一体化せしむる心意の糊こそ大切ならずや。又是をひきはなす無縁の雲とは何処より来るやをよくよく考へなば、従って信仰の方法は考案工夫せらるる筈なり。己自らあやまりたる行為をなしながら是を知らざるは、即ち雲を考へざる故なり。例へば父母は娘を縁づくるあたり将来を安からしめんとて富豪の家を択びて嫁しづけ、是にて娘の将来は安全なりと喜びしも束の間、その娘が離縁されて帰り来らば父母の嘆きは如何あらん。斯ることを二度三度くり返へし、果は娘の将来をあやまたしめ居る如き例はすくなからず。是を宗教者達に云はしむれば唯因縁なりと教ゆるのみにてその後の事柄を、くはしく説き聞かす指導者はすくなきも遺憾なり。斯ることは因縁として一概に片づけらるるものにあらず。原因より結果に至らしめ、更に新らしき原因より、又結果へと順次中途因果の法則にむかいて追究し来らば、その最初の原因のあやまちを発見することを得ん。然してその発見せし原因より更に是を来世へとその理をきはめなば、娘の将来を安全の方向に向はしむること敢て難きにはあらざるなり。

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