覚者慈音1566   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1566
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第五十二      身心の信仰と縁の関係 その一   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・10


 美を求むるは己が心を慰めんがためにてはよもあるまじ。所謂高楼に住い美服を纏ふ是を他に知らしめて己が沽券を示めさんとするにてはあらざるか。唯己が心の満足をはかる為の美なれば斯ることをなさずとも他に方法もある筈なり。又大廈高楼に座して美服をまとひその価値によって己が品位を高めんとするが如きは是即ち肉体の権威にして精神の徳にはあらざるべし。斯ることをなして他の人を羨ましむる如きはこれ罪悪にして、却て己が身に災厄を招く原因となる事に心づかざるや。大廈高楼に多くの財宝をつみ其の他に誇るならば盗人の侵入することあるは、是却て罪人をつくる原因となることを考へざるべからず。斯ることをなしなしながらもし盗難に会ひて己が身に傷くことあらばこれを悲しみ、神仏の加護なきものなどと思ひあやまつ人は多からん。もし是等の人が身心一体の信仰とならば衣食住の事足りてのち余財あらば是を施し、或は世の中の役にたたしむるならば、己が沽券は世に高くあげられて一般より尊敬を受くるのみならず、世を益し其徳に依って多くの人を喜ばしめ、然して安全なる生涯を送るにてはあらざるか。斯くしてこそ身心一体の信仰は得らるる道理なるに不拘、己財宝を重ねて人を羨ませ、然して己のみ栄達をはかる如きは実に危険とや云はん。わけて婦人などには纏ひもせぬ衣服を多く作りて倉に蔵して、己が心を慰め居る如きは実に贅沢もこの上なき事ならずや。財宝ありてすら斯くの如き危険なる状態に追ひこまれ、其がために却て安からぬ生活をなし居る人あるなり。然して彼等は其危険より脱せんとして信仰に入りて神を祀るにあたっても唯金品を献納すれば其にて、己が安全を保たるるが如く考へて信仰をなし居る人も少なからず。神は金品財宝によって恵をたれ給ふなど誤解するは愚も亦甚だし。斯る境涯の人あるによって貧者は殊更迷ひを多くするなり。所謂羨む心がとけやらぬ故に、正しき信仰は得られぬなり。この理より考ふれば富者の誇りは、貧者をも苦むる結果となるによって、富者は正しき信仰を得て世を益するにあらざれば多くの人の羨望を受けて、自他共に苦み悩むが故に、世の中は安からぬ状態を現出してはてしなく心の争闘は持続するなり。


此処まで書き終えて布団に潜りこむ。丁度夜中の三時だ。枕元にある大法輪閣の「神と共に生活せよ」を開いて読み始める。すると、其処に素晴らしい言葉と出会う。眠気は一気に吹き飛ぶ。早速これを転写する。有り難い言葉だ。この未知日記を読む者はすべて神の代理人だ。大法輪の編集者はこの箇所から「神と共に生活せよ」という言葉を用いられたのだ。この書の巻末に読者からの感想として、「心より感動し、涙が出て仕方がありません」とか「何十年と探し求めていた処世の指針を得た感じがします」などの手紙や電話が数多く編集部へ届いたそうな。
又松尾東平さんの談話も記載されている。
「心では難しいと感じていても、魂には通じております。幾度も幾度も幾度も、繰り返し繰り返し繰り返しおよみくださるよう。想像もつかない無限の大きな智慧を戴いている訳ですから」と仰っている。
尚、このダイジェスト版は今から丁度二十年前に大法輪という宗教に特化した雑誌から刊行されている。



「神は汝を離れ給はず、汝等がこの世に生を享けたる時、神は分身したる霊を汝等に遣はし給ひ、汝等を守らせあるなり。親なる霊は、神の命を受けて汝を守護す。耳をそばだて眼をみはり、汝の一挙一動に留意して油断なし。常住坐臥、汝と共にあり。汝等は一日中神を思い居らざるべし。霊光は寸時も、汝等を忘るることなし。この神、この霊に対して何故、厳粛なる態度、厳粛なる心もて奉仕えざるや。我は神よりつくられしものならば、神は我を離れ給はずとの念を貯えて、それによって神と共に生活することをなす底の人にあらざれば、神の有無は知ること難し。遠き空を仰ぎて神を求め居るは、これみな宗教者の教えかたが誤り居る故なり。既に諸子の肉体には神の影、宿り居るにてはあらざるか。この考えを早く思い浮かべよ。これすなわち、神我一体の法なり。明日よりは汝は神の代理なり」


 汝等、心を強くして、悪念に敗北を喫する勿れ。胆力を養ひて何物にも恐れず、心を広くして屈託なく明朗となり、勇気を起して、もって心苦を度脱して人を導き、自他ともに愉快の生涯を送らんことを願ふべし。さらば神の施しの恵みの徳は、いよいよ深く、汝等が心身を清くし給はん。
 神を親とし、我を子として、親子の関係を考へ見よ。嬰児は父母より出でて父母を知らざる如く、世人は神より出でて神を知らざる嬰児の如きなり。嬰児は長ずるに従って父母の愛に甘んずれど、世人は神の愛を知らざるは憂ふべきことならずや、神は愛のために、すべてを育て給ふなり。
 人には神より与へられたる尊き霊あり。汝等が有する霊、即ち汝等が守護神なる親を求よ。汝の親なる神の姿に見ゆる行をなして、唯その恩恵にあずかる修行を励むべし。その法とは、赤子となるべき工夫なり。嬰児に罪なし。嬰児の態度に眼を注ぎ、耳をそばだて見よ。彼は何を求めおるや。生命か宝か、然るにはあらざるべし。空腹とならば乳を求め、排尻せばこれを教へ、痛ければ知らせ、しからずば眠り、さむれば微笑む。汝等はこれを見て天真爛漫と称し居るにてはあらずや。然り、その言葉の如く、汝等も天真爛漫となれかし。
 神は人間如きものに怒り給はざれども、もし怒りて亡ぼさんとせば、一吹き口を開き給へば、宇宙の人類悉く煙の如く消え失せん。汝等、自惚る勿れ。汝等は細菌よりも小さき動物なればなり。されど神は決して恐ろしきものにあらず。汝等諸子は、神は唯恐ろしきものと考ふるは誤りなり。神ほど温和にして、やさしく慈悲のこもりたるものはあらざるなり。諸子の神を恐るるは神の眼よりのがれんとしての恐れなるが故に、神より遠ざからんとする傾向あり。我等の神を恐るるは、神を慕いて神に近寄らんとしての恐れに他ならず。幼児は母に叱られて、なおも母の胸にすがるにてはあらざるか。小児ならば、叱らるれば母より遠ざかり逃ぐ。すでに幼児と小児との相違は我等と諸子の如し。早く安全なる母の胸に抱かれては如何 !

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