覚者慈音1565   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1565
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第五十二      身心の信仰と縁の関係 その一   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・10


 ここに一家族が集りて悉く信仰の道につきて神を語り、神の道を聞きて修養なし居ると見なし居ると見なして考へ見よ。斯る家は一家むつまじく日々を安らかにすぐして円満なる家庭を作り、他よりも羨やまれ一家悉く嬉々として生活なし居りしと見なして考へ見よ。果して其家が長く円満の家庭を作り得るや。もし其家の誰か一人が迷ひの心を起して神にそむく行ひをなしたりとせんか、斯る時今迄明るき生活をなしたりし家が、その一人の不心得より稍暗き影を見ることあらん。其が次第々々に暗より暗へと変じ来り、軈ては一家に不和を生ずるは是又見らるる現象ならん。是等は何故かと云ふに精神信仰と、肉体信仰が伴はざる結果なりと見るの他なかるべし。この家にして両者一体の信仰となり居らば家族が一人として、神にそむく行ひはなさざるべし。信仰の強き家には斯る事の生ずることしばしば見受けらるる現象なり。肉体上に対して何等苦痛なき人の信仰には斯くの如きあやまちのあること多し。肉体の悩みなきが故に精神の慰安を何かによって求めんとしてここに至って信仰をはじめ、然してその信仰の力が進むにつけて精神信仰にのみ重点をおく人は多し。是は肉体が安らかなるによって心の悩みを何かによって求めんとする気まぐれ信仰にすぎざる故なり。もし此人にして肉体に大なるなやみの生じたる時は精神信仰はここに至って放棄され、忽ち悩みの迷信に陥るに至ることは是又当然の現象なるべし。其はもともと根を洗へば気まぐれ信仰なりしためと云ふに尽るなり。世の中の人の信心と云ふは是等の類の道を進む人は多くして、真実心の底より求め得る人は稀なることも推して知らるるならん。一家の不和を生ずるも一方的の信仰の結果現はれなり。両者一体の信仰をなし居る家は決して不和を生ずるものにあらず。よく我等が耳にするところなるが我等神を信じ仏を信じて日々怠らず仕へ居るに不拘、我に斯く迄苦痛を与へしむるは真の神仏のあらざるかとの嘆きの声なり。是等の信仰は何れも一方的にして両者相伴はざる故なり。世人は衣食住にさへ事欠かねば其にて肉体生活は満足せらると思ふが故に迷ひは多く重なるなり。衣食住に事欠かぬ生活をなし居らば其にて肉体は安らかならんとのみ考ふるによって、ややもすればそこに間違ひを生じて、却て衣食住の苦みを招き、或は心の動揺を禁ずることあたはざるに至るなり。一日三食によって腹は充たされ、寒暑に堪え得る衣服を纏ひ安眠なし得る家に住いて日々を送ることを得ば、其にて衣食住は充たされ居る筈なるに不拘、美味美食を求め多くの美しき衣服を購ひて是を蔵し、住居を広くなして種々様々美をこらす等々、是何によってかかる望みを抱くやをふりかへって考へ見よ。

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