覚者慈音1563   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1563
未知日記 第九巻 因果論    精神信仰と肉体信仰について   
第三の巻
心霊篇 
第五十一      自然と因縁の関係    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・09


 我等縁について斯ることを語るは他にあらず。目的は別個にあるによつてなり。縁の自然不自然を語り居るも、世人の信仰を厚からしめんが為の事より斯る説を説き居るなり。世人の信仰は今や両道に区分されて道を二すじに歩み居るによつてなり。世人の信仰は今や縁によって二分されたり。所謂一旦結ばれて又はなれたると同様の結果になり居るなり。我等は世人に対し道は一すじなり、両道を歩むべからずと説明なしたるを世人は曲解して、一すじの道を歩まんとして、却て二すじの道を歩み居る故なり。是等も縁によって別れたる故なり。宇宙の自然は右にも左にも通ずるによって、別るれば次第に横道にふみ入ることは、是自然の余りに複雑なるが故にして、もし世人にして正しき智慧をはたらかせ居らば、一すじの道を歩むは至難にあらねど、智慧うすき為、或は右し或は左する如き迷ひのあるによって斯くも二道に別れたる信仰となりしなり。然らばその二道に別れしとは何なるかと云ふに、世人の信仰は精神信仰と、肉体信仰とが今や二つに別れて行動なし居るによって、是を一体化せしめんとの思ひより縁の自然を語り居るなり。大乗とは所謂精神信仰にして、小乗とは肉体信仰によってなりとの意味を深く考へ合はせ見よ。世人は自在論より此書に到る迄を読みて、精神信仰にはいささか進みたれど、肉体信仰を伴はざるが故に、隔は益々広くなり行くを我は知るによってなり。所謂縁によって結ばれ居る身心が、今や分離せられ居る不自然縁と変りたることに気附くならば、早く不自然縁を捨てて更に自然縁に立ちかへらずば、身心一体とはならざる故なり。世人は縁と云ふことは自他の区別を考ふるならんも、実は身心も縁によって結ばれあることには無関心なるべし。身と心は縁によってつながれあることに気づくならば、縁の重大なる事にめざむるならん。縁は唯自他の関係とのみ思ひて、己が肉体にかかる大なる縁のあることには気づかざりしならん。故に不自然縁となりて、身心の修養は一方的となりて一方は進み、一方は進まざ故に別れ居ることは是不自然縁の現はれなる事に早くめざめよ。然らずば永久正しき信仰は得られずして、迷ひのみ深くすることとならん。世人は魂にのみ重点をおき魂をのばすのみにて身体の修養をなさざるによって身心一如の信仰とはならず、魂の信仰のみにては正しきさとりは得られず。又肉体信仰のみにては魂の信仰は得られざる事も考慮に入れよ。然して身心一体の方向に向ふことを真の信仰一すじの信仰と云ふなり。世の中には「念仏を称へながらの嫁そしり」と云ふ句あり。是等は精神的の信仰にて、肉体信仰を伴はざることを教へたるものなるべし。世人の信仰が二道に別れたるは恰も一枚の紙を二つに裂きたるに等し。故に是をつなぐは糊の力を用いざるべからず。修養の糊の力を以てつながざるべからず。糊とは縁なり。

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