覚者慈音1561   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1561
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第五十一      自然と因縁の関係    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・08


 先にも語りし如く回を重ね技倆をこらし理に合ふ方法を以て、種々様々工夫して作り上げたるものならば、そは原因より結果に至る順序をたしかむれば、柿の実が梅になりたる経路よりこれを断定することは至難にあらず。されど技工をこらさずして去年の柿が今年梅になりたる如きは、これ無縁にして有縁にあらず。全く奇跡と云ふの他なからん。是がもし ありとするならば其は神の力ならんと云ふの他なからん。宇宙の自然は斯るものにあらず。柿は柿によって作られ、梅は梅によって作らる。然るを柿を梅にかへて何の効果あらんや。斯ることを神もなし給ふ道理あらんや。この事に関しては古来より伝はる伝説の中にありとして我等は我等はこれを耳にす。されど我等は唯一笑に附するのみ。斯ることの伝説をなしたるものは神の力を、或は悪魔の力を知らしめんとの意味より語りしにすぎざるべし、斯ることを流布して神を知らしめんとするが如きは余りに智慧なし。斯る極端なることによって神の存在を知らしめずとも、大自然の如何に広大無辺なるかを認識せば、神の力は深淵なることは自づと自覚することを得るにも不拘、愚説を弄して神を知らしめんとして却て神の尊厳を傷くるに至る如きは軽率とや云はん。愚とや曰はん。慎むべきことにこそ。そは別としてとにかく縁と云ふことは即ち一言詞すれば引力なりと云ふ言葉に尽るなり。縁は引力と引力が接触して結ばるるによってなり。無縁とは圧力に相当す。圧力は相互分離さるるによって縁は結ばれ差゛るものなれど、是等を逆上れば即ち無縁と云ふものは一としてあらざるなり。所謂引力圧力の相違あらざる底の根原に逆上らばすべては一なり。故に無縁と云ふものもなく、又有縁と云ふものもなく、有無の縁悉く一なるによって、すへては不可分の関係となることに心づかば、その悉くが一体化し居ることに気づくならん。根によって葉は分布す。根に帰らばその悉くはみな同一関係のものなるべし。枝となり、葉となるによって、別れたるにすぎず。是無縁ならざる道理なりと知らば可ならん。所謂縁の結ばるるは唯濃淡の相違あるのみ。うすき縁、こき縁は、引力圧力の相違に他ならず。又波長の相違あることも自づと認識することを得るならん。人体に於て頭と足はその居を異にすれど縁によってつながる。又左手と右手ははなれ居れど唯是も隔を異にするのみにて無縁にはあらず。一個のつながりあることはそのつながりが縁なりと思はば、自づと有縁無縁の道理は明らかに知ることを得るならん。右の手と左の手が仮に百万里へだたり居ると見て考へよ。その手が互に合掌すれば既に縁は結ばれたる如く思ふならんも、事実何か根原ありて是を結び居りて結ばれ居ることに気附くならん。その根原の何なるかが縁なることを考慮せば、縁とは如何なるものなるかを悟ることは至難にはあらざるべし。又是を不可思議と思ひし夢もさむるならん。

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