覚者慈音1560   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1560
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第五十一      自然と因縁の関係    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・08


 因縁とは物と物とのつながりを聯想するならん。所謂自他の関係を指すならんことを時考ふるは一般の思ひなるぺし。然らば彼我の区別なく接続せられ居ることを世人は考慮に入れしことありや。全宇宙は無始終霊子なりと我は語りたり。無始終霊子の中に包含せられたるもの、その悉くが分離せられありとも縁なきもの一としてあらんや。ここに思ひを廻らす時すべては無始終霊子の現はれなりとせば、無縁のもの一としてあらざること無しとの、結論に達するにてはあらざるか。彼我の区別あるによって遠く離れし物と物とが縁なきものの如く思はるれど、根底の無始終霊子に立ちかへらば悉くはみな一なり。故に無縁のものなきことも推して察することを得るならん。遠近を考ふるは距離なるべし。小さき例を引用するならば、アメリカと日本は無縁の如く考ふるは是距離を考ふるにてこの隔りを取り去らば即ち無縁にてはあらざるべし。よく日本人が口にする江戸長崎の人と人が夫婦関係とならば不思議なりと称へ居るにてはあらざるか。江戸長崎これ距離あるによってなり。此距離を取り去らば何等不審することなかるべし。土地を開拓して水田を作り是に水を満たさんとするには、其々水路を作りて水を送るにあらざれば目的は達しがたからん。水路は所謂縁なるべし。この縁を切断せば水は他に流れて縁を断つ。縁とは人工に限らず、天事に限らず、すべて自然の法則に従ふことによって正しき縁は得らるるなり。自然の法をあやまらば無縁関係となることは誰もが知るところならん。自然を応用して是を正しくつなぐことによって縁は結ばる。逆用せば縁ははなれて結ばれざるは是又自然の法則なり。血族性結婚によって悪しき病を得て不具となるもこれ即ち縁なり。病の遺伝するは自然を逆用したる現はれにて、別段不審することはなかるべし。宗教者の云ふ如く唯何事も因縁なりとして諦らめ居るは、是智慧の至らざるにて原因より追究してその理をきはむれば、因縁の何なるかは明らかに知ることを得るなり。恰も水田に水を流し居るにすぎず。悪き方に流さば水は悪しき方に流れ、よき方に流せばよき方に流るる如く、明らからその理をきはむること至難にあらざるなり。是が原因をたしかめて何れがよき方に充たさば、其にて凡ては解決するならん。故に因縁とは、因縁の善悪は即ち自然の用法如何によると知らば、別段不審することむなかるべき道理あらん。柿の種子を蒔きて梅の実を結ばせたりとせば、そは因縁にあらざるなり。柿の種子より種々様々工夫して幾回となく作り上げしものが、今年に至って梅の実と変じたる如きは是因縁にもあらず因果にもあらず、自然にもあらざる不可思議現象なることは云ふ迄もなし。もし斯くの如きことありとせんか、世人は是を聞きて又是を目撃して唯奇蹟なりとのみ思ふならん。又或ものは斯る事のあるべき道理なし。是には何かの方法にて柿と梅と植えかへしならんとか、或は斯ることの絶対あるべき道理なしとて何処迄も否認するならん。事実は斯ることのあるべき道理なきなり。

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