覚者慈音1559   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述


覚者慈音1559
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第五十      自然の法力と不自然の法力    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・07


 即ち肉体即精神精神即肉体の関係あるによって、身心一如の法則に従って、自然を応用して真の自由を求むれば、其にて完全なる結果は得らると我は説破するものなり。物事は余りにこりすぎても悩みを多くし、又こり足らずとも成功はなりがたし。所謂中道を行くにあらざれば目的は成就しがたからん。中道を行くことは至難なり。何となれば人は物事をなさんとする時、早く成就せんことを急ぎて、却て方法をあやまつこと多き故なり。速ならんことを望むが故にこりすぎて却てあやまちを犯す。少しく時間を要すとも、断間なく油断なく、着々歩みを進むれば、却て成功は速となる理に基きて工夫せば可ならん。
 自然に基いて是に逆行せず、素直に道を歩まば自然の力は強ければ強きだけ、大なるものを与ふるは、是即ち自然の法則なるが故にして是には又自由の力を要す。自然に逆行するも自由をあやまつによってなり。自然と自由は同一歩調を歩たずば逆行となる。自然に逆らはずこれに従ふ時は真の自由となるなり。世人の多くは自由を自然と切りはなして行ふが故に、正しき自由は得られざるなり。恰も凧をあげるに紐を用ゆると同様にて、紐の力にて凧は上昇し、然して大空に昇りて真の自由を得て飛翔す。是紐の自然あるによって自由は得らるるなり。今この自然の紐を切断するならば、凧は風のまにまにとびちりて果は転落す。世人の自由とは凧の糸を切りはなしたる自由を望むが故にあやまつなり。紐の自然に縛ばらるるにあらずして、その自然の力あるによって自由の飛翔はなし得ると思はば、是自由を束縛せられたるにあらずして、自然に従ふが故なりとの思ひを抱きて一段工夫せざるべからず。故に自然の法力は他を縛るにあらず。自由を得せしめんがための自然の法則に従ふと知らばすべての法則は自然の紐なりと思いて是を縛ばらるる考ふることなく縛ばらるるにあらずして従ふなりとの理に基きて、道を正しく歩まば可なり。人の智慧の増大するもみな自然の力なり。肉体の増減変化も是又自然の力なり。もしこの力なかりせば人智に変化を与ふるものにあらず。
 例へば人生れて訳もなく時間を費して死し、又生れて死する如きことは、自然の如く思はるれど、それは即ち自然の一部を応用せしにすぎず。同じ事をくり返へすは、所謂一つの種子を蒔きて稔らせ、何等の手入れをもなさずして繰り返へし居るにすぎず。始め悪しき種子なりとも、是を栽培するに種々様々工夫してよき種子に、よき種子にと稔らせて、よき種子にかへ、幾回となく手入れをなして育つることによって、始め悪しき種子なりしも、後にはよき種子と変じてよき実を結ぶことは、世人も実験上知ることならん。其と同様にて人も原始時代より生れては死し、死しては生れ、幾回となくくりかへすうち智識は修養の力によって変じ来りて、今日に至り居ることをも世人は知るならん。是自然を応用して工夫したる現はれなることは異論の余地なからん。自然の力は斯くも深淵にして、用法をあやまたずばはてしなく持続して尽るところなかるべし。悪用すれば是又同様の結果となりて、悪果を結ぶに至らんこと云ふ迄もなし。斯く考へ来る時、自然とは即ち智慧を作る源なりとも見て差支なからんかとの質問を、今慈音は我に問ひたり。我、是に対して答へて曰く、「自然は万物を造り出せしが故に万物の母なり」と答ふるものなり。全宇宙よりつくられたるすべてのものは自然の力なり。作りしは母なり。其母は即ち自然なりと答ふる他なからんと思ひし故なり。所謂中途自然の質問にて是を自然の根源に逆上って考察すれば、即ち鳥にもあらず、卵にもあらず、鳥を作りし原因ありし事に気附くならん。然る時は鳥は先にて卵は後なりと云ふ理は明らかとなるなり。原因自然中途自然、刹那自然結果自然の法則は是によって現はれたりと知らば、すべての道理をきはめんとならば原因自然より考察して、結果自然に及ぼさばすべては明らかに認識することを得ん。自由に於ても亦同様の関係あることを考慮に入れよ。

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